「失敗を楽しむ(宮脇俊三) - 原武史」新潮文庫「鉄学」概論 から

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「失敗を楽しむ(宮脇俊三) - 原武史新潮文庫「鉄学」概論 から

宮脇俊三(一九二六~二〇〇三)は、もともとは小説家である内田百閒 阿川弘之とはちがって、始めから終わりまで「鉄道紀行作家」であった。
中央公論社の優秀な編集者から五十歳を過ぎての転身だったが、「国際政治、美学哲学経済学に始ってスポーツ、ファッション」に及ぶ学殖をもつのだから、「もうちっと別の分野に進出すればいいものを、もっぱら内外の汽車に乗って汽車のことを書く」(『南蛮阿房第2列車』新潮社、一九八一年)後半生を選んだ。子供のころから身にしみこんだ「鉄道好き」の夢を選んだのである。
宮脇俊三が敬愛し、学び、そしていつも意識していたのは、もちろん内田百閒、阿川弘之であった。
じっさい彼ら三人には、似ている点が少なくない。最初にふれた、自分を突き放して見る相対的な視点や諧謔[かいぎやく]性。また言葉の厳格な使用、無駄のない文体。そして、それらが鉄道紀行・エッセイを書くうえで決定的に重要であることを理解していること-言葉にすれば簡単でも、これを作品で実践できる者は、おそらく彼ら三人以外にはいない。 
けれども、似ている以上に、内田百閒・阿川弘之宮脇俊三には大きなちがいもあり、また宮脇俊三の個性がきわだつところも多い。
内田百閒は言ってみれば幹線主義で、東海道本線山陽本線鹿児島本線といった本線中心に乗ることが多かった上、「私は五十になった時分から、これからは一等でなければ乗らないときめた」(前掲『第一阿房列車』)と述べているように、一等車にもこだわった。また阿川弘之も、外国では幹線をよく利用し、TEEやオリエント急行など、名だたる優等列車に乗っている。
これに対して宮脇俊三は、幹線ばかりかローカル線にもしばしば乗っている。新幹線が好きでないのは百閒や阿川と同じだが、グリーン車には乗らず、わざわざ赤字で廃線寸前のようなローカル線に乗りに行く点は違う。宮脇は、百閒や阿川とは異なり、特急や急行の走っていないローカル線に魅せられてゆく。
新幹線が開業し、特急や急行から一等車が消える代わりなスピードアップが図られたとき、阿川弘之は内田百閒と同じ阿房列車に乗るべく、日本を捨てて海外に渡った。ところが宮脇俊三は、そうした時流のなかで見捨てられてゆくローカル線を「発見」することで、日本にとどまろうとした。

あるいは、前述のように内田百閒・阿川弘之は、鉄道に乗るときには必ずと言っていいほど連れがいた。対して、宮脇俊三は基本的に一人である(近年鉄道好きの間で宮脇俊三の人気が高い大きな理由の一つは、ここにあるかもしれない)。とはいえ、帰宅すれば家族が待っているし、中央公論社に在職中は会社の同僚たちの暖かい理解もあって、決して孤立しているわけではない。
内田百閒・阿川弘之と連れのやりとりの描写には、おもしろく読ませるための脚色・創作が混じっているが、宮脇俊三の記述には作為は感じられない。おそらく事実をそのままに書いているはずである。宮脇俊三のデビュー作にして代表作のひとつでもある『時刻表2万キロ』(河出書房新社、一九七八年)が日本ノンフィクション賞を受賞したのもうなずける。
より大きなとらえかたをすれば、内田百閒・阿川弘之にくらべて、宮脇俊三はマニアに近づいていると言える。
たとえば『時刻表2万キロ』は、国鉄二万キロ全線完乗という一大目標に向かってひた走っていく、その過程のドキュメントである。また『最長片道切符の旅』(新潮社、一九七九年)は、同じ駅を二度通らずに乗る「一筆書き乗車」の区間としては最も長かった広尾線の広尾(北海道)から指宿枕崎線の枕崎(鹿児島県)まで、二カ月あまりをかけて乗り通した体験記である。
こういった指向性はマニアには共通するが、同じ鉄道好きでも、目的をもつのが大嫌いな内田百閒には通じないだろう。
宮脇俊三は乗りに行く前、時刻表で綿密に計画を立てる。つまり既存のダイヤのなかで、まだ乗ったことのない線をいかに効率的に回るがに、けっこう熱を上げる。そして、「これは私がいままでに考案したうちでも傑作の部類に入る」などといって、一人得意になったりする。
こう書くと、それではマニアそのものではないかといわれそうである。
しかし、宮脇俊三にはそれとは決定的にちがう部分があるのだ。
それは、『時刻表2万キロ』の第1章にいきなり現れる。
高山本線岐阜県から富山県に入ったところの深い山中に、猪谷[いのたに]という駅がある。いまはなき神岡[かみおか]線との乗換駅だ。乗ったことがなかった神岡線に乗り、終点神岡からもどってきた宮脇俊三は、猪谷で高山本線の下り富山ゆき普通列車に乗り換えるべく待っていた。ところが勘違いから予定していた列車に乗りそこない、「長いホームの上に私一人がとり残され」てしまう。
普通の鉄道好きなら、必ずやパニックにおちいり、頭でも抱え込むような場面である。ところが、宮脇俊三はちがう。

高山本線猪谷駅。よい駅である。人っ子ひとりいないのがこれまたよい。山間のホームに立って飛騨側を見渡せば、V字型の深い谷のなかへ神通[じんづう]川と線路が消えている。朝靄[もや]が半透明の膜となって徐々に上ってゆく。山肌は樹林に覆われているが色彩は感じられない。しかし、水蒸気の濃淡が色彩にまさる効果をあげていて、これは水墨画だ。まさに水暈[すいうん]墨章の妙であるけれど、私には神通川に沿った国道を富山に向かってとばしてゆく車がうらやましく憎かった。
『時刻表2万キロ』(角川文庫一九八四年)

パニックにおちいるどころか、次の瞬間には悠然とあたりを見渡している。計画通りにいかなかったといって、いつまでもくよくよしていない。逆に、偶然にも手に入った新しい時間に対して敏感に反応している。その切り替えのすごさが、文学性を生んでいる。意図したものではないけれども、ここで見る風景はじつはこの駅でしか見られない風景だということがよくわかっていて、それをむしろ楽しむような風情さえあるのだ。
もちろん、走れば乗れる列車にわざと乗らず、駅のホームで二時間も次の列車を待つ内田百閒とは異なり、宮脇俊三は自らの過失から乗ろうとした列車に乗れなかったことを悔やんでいる。しかし右の文章には、場当たり的な行動のなかで、観察すべきは観察している百閒の眼につながるものがあるように思われる。

つまり宮脇俊三には、綿密に計画を立てることは立てるけれども、その通りにうまくいかなかった場合のトラブルもまた、ある種楽しむ余裕がある。そこが、普通の鉄道好きとは一味も二味も違う。

......公園と豊平[とよひら]川との間にはお二人様専用の旅館がたくさんあるという。こういうことは旅行案内には書いてない(略)
こういうところは非常に静かである。廊下から客の大声が聞こえてきたりはしない。私は朝までよく寝た。
朝の光線で見ると、部屋のなかは化粧の剥[は]げた姥桜[うばざくら]のようで、やはりわびしかった。しかも、私の着ている浴衣はピンクの縞[しま]で、未使用のまま床に落ちているのが紺であった(略)

ホテルの予約をせずに札幌で泊まろうとしたら、すべて満室だった。タクシーでホテル探しをしながら途方にくれていると、運転手が別目的のホテルに掛け合ってくれて、そこで一晩を過ごしたときの文章である。こういうことを真面目くさって書く、そのユーモアに感嘆せざるをえない。『時刻表2万キロ』の面白さの一つは、おそらくそこにある。
もう一つの面白さは、宮脇俊三が内田百閒や阿川弘之よりも、車窓風景や車内で出会った人々を注意深く観察しているところにある。
先程の猪谷駅から見た風景描写にもその片鱗がうかがえるが、これは一人旅ならではのよさだといえるだろう。宮脇俊三が全線完乗を目指していたのは国鉄の末期で、赤字ローカル線がいつなくなっておかしくない時期に当たっていた。この線にももう二度と乗れないかもしれないという切迫感が、宮脇俊三の観察眼を一層鋭くしているのである。
たとえば、福岡県の遠賀川[おんががわ]と室木[むろき]を結んでいた室木線(一九八五年廃止)から見た車窓風景はこうである。

室木線の列車はすべて客車列車で、10時05分発の三両連結は、遠くボタ山を眺めながら、遠賀川の平野を悠々と走る。昨夜の雨で洗われた樹々に陽光が映え、風が通ると葉が裏返って樹が若々しくうす緑色になる。使い古いした客車の中まで緑がとびこんでくるようだ。春は斜陽の筑豊にも優しく訪れている。(『時刻表2万キロ』)

この室木線もいまはない。しかし宮脇俊三の抑制された筆致は、ありし日の室木線の姿を、永久にとらえて離さない。
宮脇俊三は車内で風景を見ることに重点をおくので、乗り合わせた客と話を交わすことはあっても、たいていは二言三言で済ませてしまう。しかしたまには、その原則を逸脱せざるを得ない場合がある。
一九七八年(昭和五十三)十二月十六日、前述した「最長片道切符」をもって福岡県の篠栗[ささぐり]線に乗っていたときのことだ。

前の席の中年のおじさんが話しかけてくる。酒の臭いがする。
「齢[とし]をとると忘年会が二日がかりになりますわ」
二日酔のことかと思ったら、そうではなく、きのうの夕方からのみつづけていたらしい。齢との関係からすると、むしろ若い人のほうがそういうのみ方をしそうだが、九州や高知の酒ののみ方には私などの常識を越えたところがある。
「五十を過ぎるとガクッと通勤がきつくなりますわ」
とも言う。これはわかる話である。後藤寺〔現・田川後藤寺〕発6時59分、博多着8時26分の列車で通っているのだそうだ。これもよくわかる話なので、私はつい、
篠栗線が開通して便利になりましたね」
と調子を合わせてしまった。おじさんは調子づき、話が止らなくなった。私は外が見られなくなった。
(『最長片道切符の旅』新潮社、二〇〇八年)
常に左右の車窓風景を見ていなければならないとするマニアなら、このおじさんの話は単にやっかいな障害でしかないだろう。しかし宮脇俊三は、律儀におじさんの話に付き合い、最後には名刺までもらっている。筑豊から福岡への通勤線として開通した篠栗線なら、廃止される心配はないし、これからも乗る機会があるだろう。だが、おじさんさんとの出会いは一期一会だ。
どちらをとるかといえば、宮脇俊三は後者をとる。それがまた、文学性を生み出すゆえんになっているのだ。
こうした特徴は、とりわけ七〇年代から八〇年代にかけて書かれた宮脇俊三の初期作品群に鮮やかに出ている。『時刻表2万キロ』にせよ『最長片道切符の旅』にせよ、マニアが目標を決めて見事達成したというだけの話であれば、今日まで版を重ねて読み継がれるほどの高い評価は得られなかったはずである。
『時刻表2万キロ』のなかで宮脇俊三は、「児戯に類した乗車目的は、なるべくひとに言わないですませたい」「この阿呆らしき時刻表極道の物語」といったことを何度も書いている。それは羞恥の表現である。宮脇俊三は、自分がやっていることもまた、マニアの一種であるということを自覚しつつ、恥じらっている。
この恥じらいに、廃止される運命にある線に対する悲哀の感情、あるいは、この線にまた乗れるだろうか、二度と乗れないかもしれないと思いつつ、車窓風景や乗り降りする客たちを冷静に眺めているときの名状しがたい思いを加えるとき、宮脇俊三ならではの深い世界というものが立ち現れてくる。それは期せずして、鉄道の黄金時代であった昭和という時代への挽歌にもなっている。
内田百閒、阿川弘之宮脇俊三と受け継がれてきた鉄道紀行文学の系譜は、阿川より年少の宮脇俊三が亡くなったことで存亡の危機に立たされている。はたしてこの先、この系譜に連なる「巨人」は現れるのだろうか。