3/3「虫のいろいろ - 尾崎一雄」岩波文庫 暢気眼鏡・虫のいろいろ から

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3/3「虫のいろいろ - 尾崎一雄岩波文庫 暢気眼鏡・虫のいろいろ から

神経痛やロイマチスの痛みは、あんまり揉[も]んではいけないのだそうだが、痛みがさほどでない時には、揉ませると、そのままおさまってしまうことが多いので、私はよく妻や長女に揉ませる。しかし、痛みをこうじさせてしまうと、もういくない。触ればなお痛むから“はた”の者は、文字通り手のつけようが無い。
神経痛の方は無事で、肩の凝りだけだというとき、用の多い家人をつかまえて揉ませるのは、今の私に出来るゼイタクの一つだ。この頃では十六の長女が、背丈は母親と似たようになり、足袋も同じ文数をはき、力も出て来たので、多くこの方に揉ませる。疎開以来田舎の荒仕事で粗雑になった妻の指先よりも、長女のそれの方がしなやかだから、よく効くようだ。それに長女は、左下に寝た私の右肩を揉みながら、私の身体を机代りに本を開いて復習なんかするから、まるで時間の損というのでもない。
ときにはまたおしゃべりをする。学校のこと、友人のこと - たいてい平凡な話で、うんうんときいてやっていればすむ。が、時々何か質問する。先日も、何の連絡もないのに、宇宙は有限か、無限か、といきなりきかれて、私はうとうとしていたのをちょっとこづかれた感じだった。
「さあ、そいつは判らないだろう」
「学者でも?」
「うん、定説は無いんじゃないかな。 - それは、あんたより、お父さんの方が知りたいぐらいだよ」云い云い、私は近頃読んだある論文を思い出していた。可視宇宙に於ける渦状星雲の数は推定約一億で、それが平均二百万光年の距離を置いて散らばっている。その星雲の、今見られる最遠のもの、宇宙の辺境ともいうべき所にあるものは、地球からの距離約二億五千万光年、そして各星雲の直径は二万光年 - そんなことが書いてあったようだ。そしつわれわれの太陽系は、約一億といわれる渦状星雲のうちのある一つの、ささやかな一構成分子たるに過ぎない。「宇宙の大」というようなことで、ある感傷に陥った経験が自分にもある、と思った。中学上級生の頃だと思う。今、十六の長女が同じ段階に入ったと感ずると、何かいたわってやりたい思いに駆られるのだった。
「一光年というのを知っているかい?」ときく。
「ハイ、光が一年間に走る距離であります」とわざと教室の答弁風にいう。
「よらしい。では、それは何キロですか」こちらも先生口調になる。
「さア」
「ちょっと揉むのをやめて、紙と鉛筆、計算をたのむ」
ええと、光の速度は、一秒間に.....などといいながら、長女は掛算を重ねて十三桁から十四桁の数字を出し、うわ、零が紙からハミ出しちゃったといった。そいつを二億五千万倍してくれ、というと、そんな天文学的数字、困る、という。
「だって、これ、天文学だぜ」
「あ、そうか。- 何だか、ぼおッとして、悲しくなっちゃう」と長女は鉛筆を放した。
二人は暫く黙っていたが、やがて私がいい出す。
「でもね、数字の大きさ驚くことはないと思うよ。数字なんて、人間の発明品だもの、単位の決め方でどうにでもなる。仮りに一億光年ぐらいを単位にする、超光年とかいってね、そうすれば、可視宇宙の半径は二超光年半か三超光年、二・五か三、何だそれだけかということになる。 - 反対に原子的な単位を使うとすると、零の数は、紙からハミ出すどころか、あんたが一生かかったって書き切れない」
「うん」と静かに答える。
「単位の置きどころということになるだろう。有限なら、いくら零の数が多くたって、人間の頭の中に入るよ。ところが、無限となると.....」
神、という言葉がそこへ浮んだので、ふと私は口をつぐんだ。長女は、機械的に私の右肩を揉んでいる。問題が自分に移された感じで、何かぶつぶつと私は頭の中でつぶやきつづけるのだった。
- われわれの宇宙席次ともいうべきものは、いったいどこにあるのか。時間と空間の、われわれはいったいどこにひっかかっているのだ。そいつをわれわれは自分自身で知ることが出来るのか出来ないのか。知ったら、われわれはわれわれでなくなるのか。
蜘蛛や蚤や何とか蜂の場合を考える。私が閉じ込めた蜘蛛は、二度共偶然によって脱出し得た。来るか来ぬか判りもせぬ偶然を静まり返って待ちつづけた蜘蛛、機会をのがさぬその素速さには、反感めいたものを感じながらも、見事だと思わされる。
蚤は馬鹿だ、腑抜けだ。何とか蜂は、盲者蛇におじずの向う見ずだ。鉄壁はすでに除かれているのに、自ら可能を放棄して疑わぬ蚤、信ずることによって不可能を可能にする蜂、われわれはそのどっちなのだろう。われわれといわなくていい、私、私自身はどうだろう。
私としては、蜘蛛のような冷静な、不屈なやり方は出来ない。出来ればいいとも思うが、性に合わぬという気持がある。
何がし蜂の向う見ずの自信には、とうてい及ばない。だがしかし、これは自信というものだろうか。彼として無意識なら、そこに自信も何もないわけだ。蜂にとっては自然なだけで、かれこれいわれることではないのだ。
馬鹿で腑抜けの蚤に、どこか私は似たところがあるかも知れない。
自由は、あるのだろうか。あらゆることは予定されているのか。私の自由は、何ものかの筋書によるものなのか。すべてはまた、偶然なのか。鉄壁はあるのかないのか。私には判らない。判るのは、いずれそのうち、死との二人三脚も終る、ということだ。
私が蜘蛛や蚤や蜂を観るように、どこかから私の一挙一動を見ている奴があったらどうだろう。更にまた、私が蜘蛛を閉じ込め、逃がしたように、私のあらゆる考えと行動を規制している奴があったらどうだろう。あの蚤のように、私が誰かから無慚な思い知らされ方を受けているのだとしたらどうなのか。お前は実は飛べないのだ、と私という蜂が誰かにいわれることはないのか。そういう奴が元来あるのか、それとも、われわれがつくるのか、更にまた、われわれが成るのか、 - それを教えてくれるものはない。
 


蠅はうるさい、もう冬だから、陽盛[ひざか]りにしか出て来ないが、布団にあごまで埋めた私の顔まで遊び場にする。
蠅について大発見をした。彼が頬にとまると、私は頬の肉を動かすか、首をちょっと振るかして、これを追い立てる。飛び立った彼は、直ぐ同じところに戻ってくる。また追う。飛び立って、またとまる、これを三度繰り返すと、彼は諦めて、もう同じ場所には来ないのだ。これはどんな場合でも同じだ。三度追われると、すっぱり気を変えてしまう、というのが、どの蠅の癖でもあるらしい。
「面白いからやってごらん」と私は家の者にいうのだが、「そうですか、面白いんですかねえ」と口先だけでいいながら、誰もそんな実験をやろうとはしない。忙しいのです。と無言で返答している。勿論私は強いはしない。だが、忙しいというのはどういうことなんだ、それはそんなに重大なことなのか、と肚の中でつぶやくこともないのではない。
それからまた、私は、世にも珍らしいことをやってのけたことがある。額で一匹の蠅を捕まえたのだ。
額にとまった一匹の蠅、そいつを追おうというはっきりした気持でもなく、私は眉をぐっとつり上げた。すると、急に私の額で、騒ぎが起った。私のその動作によって額に出来たしわが、蠅の足をしっかりとはさんでしまったのだ。蠅は、何本か知らぬが、とにかく足で私の額につながれ、無駄に大げさに翅をぶんぶんいわせている。その狼狽のさまは手にとる如くだ。
「おい、誰か来てくれ」私は、眉を思いきり釣り上げ額にしわをよせたとぼけた顔のまま大声を出した。中学一年生の長男が、何事かという顔でやって来た。
「おでこに蠅が居るだろう、とっておくれ」
「だって、とれませんよ、蠅叩きで叩いちゃいけないんでしょう?」
「手で、直ぐとれるよ、逃げられないんだから」
半信半疑の長男の指先が、難なく蠅をつかまえた。
「どうだ、エライだろう、おでこで蠅をつかまえるなんて、誰にだって出来やしない、空前絶後の事件かも知れないぞ」
「へえ、驚いたな」と長男は、自分の額にしわを寄せ、片手でそこを撫でている。
「君なんかに出来るものか」私はニヤニヤしながら、片手に蠅を大事そうにつまみ、片手で額を撫でている長男を見た。彼は十三、大柄で健康そのものだ。ロクにしわなんかよりはしない。私の額のしわは、もう深い。そして、額ばかりではない。
「なになに?どうしたの?」
みんな次の部屋からやって来た。そして、長男の報告で、いっせいにゲラゲラ笑い出した。
「わ、面白いな」と、七つの二女まで生意気に笑っている。みんなが気を揃えたように、それぞれの額を撫でるのを見ていた私が、
「もういい、あっちへ行け」といった。少し不機嫌になって来たのだ。