「“かぎりなく他殺に近い自殺”  香山リカ」死をめぐる50章 から

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私のような精神科医は、身体疾患を扱うほかの科の医者に比べて、患者さんの死に立ち会う機会は少ないと思う。家族に向かって、「〇時〇分、ご臨終です」という例の“死の告知”も行ったことはあるが、おそらく十回にも満たないであろう。
死に至る病」の恐怖のかわりに、精神科では「いつまでも終わらない病」の恐怖がある。患者さんと「先生、私の余命はどのくらいでしょう?」「はっきり申し上げて、半年というところでしょう」などといった会話を交わすことはほとんどないが、「先生、私はあとどのくらい薬を飲めばよいのでしょう?」「はっきり申し上げて、生きているあいだずっと、と考えておいてください」というような“宣告”はしばしば行わなければならない。そう宣告すると、「そうですか......」と顔を曇らせて肩を落とす人も少なくない。そういうときには「命がどうこういう病気じゃないんだから」といった慰めも通用しない。「いつまでも終わらない」という宣告は、ときとしては「終わりはいつです」という告知よりずっと残酷なのかもしれない。
しかし、そんな精神医療の現場にいるものが出あう特別なかたちの死がある。それは、自殺である。精神科医のあいだではよく、「どんな医者でも数年、臨床をやっていれば、必ず何人かには自殺されてしまうものだ」というようなことが自嘲的に語られる。残念ながらそれほど高い割合で自殺が起きてしまう、という意味なのだろう。
そして私も、この常套句どおりに何人かの患者さんと、自殺というかたちでの別れ方をしてきた。各ケースについて詳細を記すことは、患者さんたちの尊厳を守るためと自分の心が未整理であるためというふたつの理由により、今はできない。しかし私は、どの人のことも、やや大げさに言えば一日たりとも忘れたことはない。何年も前の症例について今でもふと、「どうしてあんなことになってしまったのか」と考え込むこともよくある。
自分の受け持ち患者さんが自殺すると、先輩や同僚はまず、心をつくして労をねぎらい慰めてくれる。「先生、たいへんだったね」「この場合は、だれが担当しても同じ結果になったと思うよ」。みな、その医師がどれだけ衝撃を受け、自責の念にかられているかをよくわかっているからだ。
それにしても、どうして動物の中で人間だけは、「自ら命を絶とうとする」という思考や行動がプログラミングされているのだろうか。しかも、そのプログラムは悩みや恨みといった心理的な原因でではなくて、あきらかにある身体的な原因によって作動し始めることもあるのだ。「どうして死んだのだろう-病気が、そうさせたのだ」としか言いようがないようなケースも少なくない。たとえばうつ病うつ状態については、その生物学的な成因がかなり明らかになってきている。このうつ状態の典型的な症状のひとつとして「もう生きていても仕方ないから、死んでしまいたい」という考えを持ってしまうことが知られている。

うつ状態はたしかにたいへんつらいものであるが、それだけではこの希死念慮は説明しきれない。しかも、この考えにとりつかれてしまった人が実際に行動を起こすのは、本来のうつ状態が快方に向かい始めたときが多いと言われている。苦しいトンネルを抜けてやっと光が見えてきて家族や主治医もほっとしたときに、彼らは静かに、しかし確実な方法で死を選ぶことがある。
自殺に先立つうつ状態の軽快を、精神科医市田勝は、山の天候になぞらえて「偽りの快晴」と呼んでいる。
精神医学の教科書にも、うつ状態からの回復期の自殺に注意するように記されているのだが、長く続いていたうつ症状に軽快の兆しが見えると、ついまわりの人も「よかった」と思いたくなる。知識としては「偽りの快晴」のことをよく知っていても、「いや、これはほんものの快晴に違いない」と思い込んでしまうのだ。そしてまわりの人がみな「よかった」と一息ついて本人への注意が一瞬おろそかになったときに、自殺は起きてしまう。
本人にしても、つらいうつ状態が取れてきて心情的には「よかった」と思っているのかもしれない。それなのに作動を始めたプログラムは停止せず、ついには彼を殺してしまうのである。- そう、それは「自分が自分に殺された」としか言うようのないがないくらい“かぎりなく他殺に近い自殺”である。
うつ病以外の疾患でも、同じようなことが起きることがある。細部は変えて語りたいと思うが、入院中の青年が冬の夜、病棟を抜け出して飛び降り自殺を遂げたことがあった。彼は、いつも明るくてユーモアを解する人だったが、周期的に出現する激しい幻聴に悩まされていた。声の主にはまったく心あたりはなかったが、いつも男の恐ろしい声で「死ね」と命令されるという。おそらくその夜も、突然、その声が聞こえてきたのだろう。泣きながら玄関を走り出ていく彼の姿を目撃した人がいたことが、あとになってわかった。幻聴はあくまで、彼の脳が生み出した声である。彼自身は死にたくなかったにもかかわらず、その命令に泣きながら従わざるを得なかったのだ。これもまた“かぎりなく他殺に近い自殺”といえるだろう。
親しい者が自殺すると、残された者は、「本人が死にたかったのだから満足だろう」と話して自分たちを慰めることがある。しかし、“かぎりなく他殺に近い自殺”の場合には、そう語り合うことさえ許されない。残された者は、「もう少しなんとかしてあげられついれば」と悔やむだけである。精神科医としても「貴重な経験をさせてもらった」とはとても思えない。「自分で自分を死に追いやる」という残酷なプログラムがただ人間だけセットされているという事実に魂が震撼させられながら、自分の無力さに途方に暮れるだけなのである。