「日々是修行(抜書) - 佐々木閑」ちくま新書日々是修行 から

 

「日々是修行(抜書) - 佐々木閑ちくま新書日々是修行 から

 

輪廻というあいまいな連続

 

仏教では、「我々は輪廻する」という。この輪廻というのは奇妙な考えだ。ちょっと説明しよう。
この世は、上は神様の世界から下は地獄まで、いくつかの段階に分かれていて、私たちは今、そのうちの「人[じん]」と呼ばれる段階に生きている。犬や猫の段階は「畜生」という。一応全部並べると、上から天、人、畜生、餓鬼、地獄となる(阿修羅を加える場合もある)。下へ行くほどつらくなる。
輪廻とは「ぐるぐる巡る」という意味だから、我々生き物は、この五種類の領域の中で、ぐるぐるといろいろな者に生まれ変わっていく。今私は人だが、死んだら何になるか分からない。「天の神様がいいな-」と思っていても、ゾウリムシかもしれない。神様に生まれたって安心してはいられない。神様にもちゃんと寿命があって、死んだらまたぐるぐる回りである。この輪廻は無限に続く。
私は無限の過去から輪廻していて、放っておけば今後も無限に輪廻する。次にどこに生まれるかは、それまでにやってきた過去の行いによって決まるのだが、そのメカニズムは普通の人には理解できないと言われている。だからどこに生まれるかは不確定である。
一番奇妙なのは、生まれ変わったら、過去の記憶は残らないということ。だから私は、自分が前世でなんであったか知らないし、次に生まれ変わったら、今の自分を忘れている。続いているような、切れているような、そんなあいまいな連続性で生命の流れを考える、それが輪廻である。
これは釈迦が考えたものではなく、当時の多くのインド人が認めていた一般的世界観である。もちろん釈迦も認めていただろう。釈迦は、その世界観を枠組みとして、その中に、自分独自の合理性を組み込んでいったのだ。
普通、輪廻を信じている人ならば、「なんとかして次はもっといいところに生まれ変わりたい」と願う。つまり輪廻は、今よりもっともっと幸福になる可能性を秘めた「好ましい働き」なのだ。しかし釈迦は、そうは考えなかった。あやふやな連続性の中で、死んでは生まれ、死んでは生まれ、それを無限に繰り返すことが私たちの真の幸福であるはずがない。生きていくということは、本質的に「苦しみ」なのだ。生きるということは、年を取りながら死に向かっていくということだ。その苦しみを断ち切るところにこそ、真の安らぎがある。「もう私は輪廻することがない。これで苦しみの連続も終わる」という確信が、その安らぎをもたらしてくれると考えた。そして、輪廻の終了を確信するための方法を、修行というかたちで説き示したのである。
私は釈迦の信者だが、輪廻の実在性は信じない。つまり、「もはや輪廻しない」という確信こそが真の安らぎをもたらすという、釈迦の精神は尊敬するが、「天の神様」や「地獄の亡者」が実在すると考えた、その時代のインド人の世界観を丸ごと鵜呑みにはしないということである。

 

輪廻の世界観を削ぎ落した先に

 

人は一生の間に、一体どれくらいの人と出会うのだろう。街ですれ違うだけの人から、人生を共に歩む人まで、出会いの深さは様々である。しかしそこには必ず、なんらかの繋がりがある。良い人にであると「過去にもどこかで会ったことがあるんじゃないか」という気がする。こういう目に見えぬ繋がりを「ご縁」という。ご縁は、科学的理論ではないが、私にとっての個人的実感である。
だが、「過去があるように思う」という感覚を、輪廻という具体的な世界像にまで広げると、とたんにインチキ臭くなる。宙を舞う神様とか、血の池でアップアップの地獄の亡者がどこかにいると、一体どうしたら信じることができるのか?輪廻の世界は、明らかに人間が頭の中でこしらえたイメージである。輪廻を信じるというのは、そういった明らかに作りものの世界が、この世のどこかに本当にあると、心底信じることなのだ。
知らない人が勝手にこしらえた世界を「へへーっ」と押し頂かねばならないなら、仏教から足を洗った方がましだ。自分が実感として納得できる世界と、押し付けられた作り物の世界、この二つは全く別物だが、境界は曖昧だ。人は知らぬ間に、そこを越えて、作り物の世界に足を踏み入れていく。
釈迦は、「輪廻はある」と考える古代インドで、合理的に生きる道を思案した。だから彼の教えには輪廻の考えが入っている。当時としてはあたりまえのことだ。だが、現代社会では全く説得力がない。今、無理に輪廻を語ろうとすると、「必ず地獄に落ちるぞ」とか「今の不幸は過去の報いだ」といった脅し文句で人を縛り付けて、恐怖心で説得するしか方法がない。それは不幸の種である。では、釈迦の教えから輪廻をとってしまったら、なにが残るか。
残るのは、「努力によって精神を集中し、その力で知慧を獲得せよ。そうすれば必ず、世界を正しく理解できる。世界を正しく見ることができれば、利己的妄念から生ずる心の苦しみを消すことができる」という教えである。それだけが釈迦の発見であり、そこにこそ、仏教が現代世界に発信することのできる、普遍的真理が示されているのである。

 

死に際で判断するな

 

私たちは、「立派な人は立派な死に方をする」と思いがちだが、それは危険なことである。釈迦の死因をご存じか?ただの食中毒。年老いて八〇にもなり、粗末な生活の中、暑いインドをテクテクと歩き回っていれば、誰だって食あたりになる。おなかをこわした釈迦は、次第に体力を消耗し、そのまま亡くなった。仏教という、世界に類のない知恵深い宗教をつくった釈迦のような人物でも、死ぬときは普通に食中毒で死んだのである。
死に際の良し悪しは運の問題だ。心根の悪い人や愚かな人でも、運がよければきれいな死に方をする。誠実に生きても、運悪く痛みの激しい病にかかれば、泣いたりわめいたりしなければならない。それは、その人の価値とはなんの関係もなあ、ただの偶然である。
最後の最後、つらい病に耐えかねて「痛い、苦しい、助けてくれ」と叫ぶのは、私自身の、将来の姿かもしれないが、だからといってそれで、私の人生が「情けない人生であった」ことにはならない。苦しさのあまり、なにか怪しい神秘にすがりたいと思うかもしれないが、ちっとも構わない。その思いが私の生き方のおおもとではないからだ。私の生き方は、今ここにいる私の、この姿である。
死に際の姿で人を判断するなかれ。人生の意味は、その人生の全体にある。長く続く日常の中で、毎日積み重ねていくわずかばかりの行いや思いが少しずつ積もって、自分でも気づかぬうちに人生を形づくっていく。たとえ最期が悲惨であったり、苦しいものであったとしても、そんなことですべてが否定されるほど、人の一生は薄っぺらではない。
死にゆく者も、送る者も、そのことを心に掛けておいてほしい。安らかに逝く人の姿は素敵だが、それよりも、誇りをもって自分の正しい生き方を決めていく人の姿の方がもっと素晴らしい。なぜならそれは、運不運とは関係ない、その人の本質的な思いを映し出すものだからである。

 

自殺は悪ではない

 

この世にはつらいことがたくさんあって、普段、我々はそれを、こまごました楽しみで紛らせたり、打ち明け話でガス抜きしたりして、なんとかしのぎながら生きている。
しかし時には、どうやっても、そのつらさを回避できないことがある。病気や金銭の問題、失恋や将来への不安といった深刻なことだけでなく、まわりから見るとまったくささいなことなのに、本人には身を削られるほどの苦痛となるいろいろな原因が、人を袋小路に追い込んでいく。
そのような人が、もし仮に、自分で自分の命を絶ったとしたら、それは悪事であろうか。一部のキリスト教イスラム教では、せっかく神が与えてくださった命を勝手に断ち切るのだから、それは神への裏切り行為として罪悪視される。自殺者は犯罪者である。
では仏教ならどうか。仏教は本来、我々をコントロールする超越者を認めないから、自殺を誰かに詫びる必要などはない。確かに寂しくて悲しい行為ではあるが、それが犯罪視されることはない。仏教では煩悩と結びつくものを「悪」と言うのだが、自殺は煩悩と無関係なので悪ではないのである。ただそれは、せっかく人として生まれて自分を向上させるチャンスがあるのに、それをみすみす逃すという点で「もったいない行為」なのだ。
人は自殺などすべきではないし、他者の自殺を見過ごしにすべきでもない。この世から自殺の悲しみがなくなることを、常に願い続けねばならない。しかしながら、その一方で、自分の命を絶つという行為が誇りある一つの決断だということも、理解しなければならない。人が強い苦悩の中、最後に意を決して一歩を踏み出した、その時の心を、生き残った者が、勝手に貶[おとし]めたり軽んじたりすることなどできないのだ。
自殺は、本人にとっても、残された者にとっても、つらくて悲しくて残酷でやるせないものだが、そこには、罪悪も過失もない。弱さや愚かさもない。あるのは、一人の人の、やむにやまれぬ決断と、胸詰まる永遠の別れだけなのである。

 

小乗か大乗か

仏教には小乗、大乗という二種類の区別がある。スリランカやタイなど南方諸国は小乗。日本やその周辺の国々は大乗である。歴史の教科書などを見ると、「小乗仏教では、個々人が自分の救済を目指すが、大乗では、自分だけでなく、世の中すべての生き物を救おうとする」とある。どうみても大乗の方が立派だ。自分の救済しか考えない利己的な小乗より、皆のことを考える大乗の方がいいに決まっている。
一方、歴史的に、小乗の方が大乗より古いことは間違いない。それは、長年の仏教学の研究によって立証されている事実だ。ということは、初めは利己的で了見の狭い小乗仏教だったものが、後の時代に、より心の広い大乗になったということになる。しかし、仏教を最初につくったのは釈迦だ。だから釈迦がつくったのは小乗だ。それなら、釈迦は利己的で了見の狭い人だったのだろうか。
小乗と大乗を較べる時、忘れてはならないことがある。釈迦は、この世に超越者がいないこと、我々を救ってくれる神秘の力はなあことを悟り、「それでも、この世の苦しみから抜け出す方法はあるか」と思案して、自分で自分を救済する方法を見つけた。それが小乗仏教になった。決して他人のことを無視したのではない。自分が見つけたその方法を皆に教え、「一緒にやろう、君らもがんばれ」と励ました。神秘力のない世界で皆を救うには、それ以外に方法はないからだ。
それが大乗になると、次第に神秘的な要素が入ってくる。我々を助けてくれる不思議な力があり、それが多くの者を一挙に救いあげるという思想である。こうして大乗は、合理性と引き換えに、救済する人々の範囲を大きく広げたのだ。
小乗とは、この世を神秘なき法則の世界と見て、その中で自己救済を目指す道であり、大乗とは、その法則性を超えた神秘作用を信じ、そこに救いを求めていく世界だ。どちらに惹かれるかは人による。ただ、小乗が利己的で偏狭な教えではないということは知ってもらいたい。神秘性に頼って生きることが難しい現代では、小乗の教えもまた、人生の貴重な道しるべなのである。

 

最高の平安

釈迦は、二五〇〇年前に死んだ時、自分はどこにも生まれ変わらないことを確信しながら、安らかに逝った。寿命のある限りを静謐[ひつ]に過ごし、死んで完全に消滅することが、釈迦の一番の望みだったのだ。彼が最高の目的とした、その「完全な消滅」を涅槃という。仏教とは「正しく涅槃に向かうための道」なのだ。
「死んで完全に消滅することを、なによりの安楽だと考えよ」と釈迦は言うのだが、普通、そう簡単には割り切れない。
(“この部分支離滅裂”につき中略)
そんな時、釈迦の教えが生きてくる。「死んだらなにも残らない」と考えて恐怖する人に、「それでいい。それが最高の安息だ」と言って道を開いてくれた釈迦の言葉には、現実に根ざした信頼感がある。我々は死んだら、ひょっとすれば、絶対者がいて救ってくれるかもしれないし、どこかに生まれ変われるかもしれない。しかしそうでなくても、たとえなに一つ残さずに消え去ったとしても、死者は平安だ。それが、釈迦が我々に確信を持って保証してくれた「死の真実」なのである。