「「三」の効用 - 吉田篤弘」ベスト・エッセイ2017 から

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「「三」の効用 - 吉田篤弘」ベスト・エッセイ2017 から
 
このところ、天候が不順である。曇り空を見る機会が多い。つい先日も、散歩の途中でみるみる空模様が怪しくなってきて、空一面が雲で覆われた。これがあたかも水墨画を見るような雲で、思わずスマートフォンを取り出してカメラに収めた。
そうするあいだも、刻々と雲の様子は移り変わり、さらにもう一枚、撮ってみたところ、今度は彫刻作品を思わせる立体的かつ抽象的な連なりになった。
見上げれば見上げるほど、単純な言葉では表現できない。大げさに云うと、無限の階調によって彩られた。
いや、これはあながち大げさでもない。日本には「四十八茶百鼠」という言葉があり、これはつまり、茶色は四十八種類、鼠色は百種類もの色あいがあるという意味だ。ただし、この数は言葉の綾で正確なものではなく、実際は、いずれも百を超える種類がある、
「でも、鼠色は鼠色でしょう」と云うことなかれ。色見本帳をひもとけば「葡萄鼠」「桜鼠」「利休鼠」と、ひとつひとつにしっかり名前までついている。
この「百鼠」がどうして誕生したかというと、江戸時代に発令された奢侈[しゃし]禁止令すなわち「庶民は贅沢をしてはいけません」という御触れに端を発している。このとき、江戸の庶民は着物の色や柄に豪奢な色を使うことを禁じられた。しかし、江戸っ子は庶民こそが洒落者で、「色を禁止するなんて野暮な話だねぇ」と御上に反発したくなった。
そこで生み出されたのが「百鼠」である。使用を許された数少ない色のひとつである鼠色に、少しずつ色を加えてバリエーションをつくった。ひとくくりにすれば「鼠色」だが、そのグレー・トーンの中に微妙な色のニュアンスを楽しむことを覚えた。
「派手な色なんてみっともない。本当に粋なのはモノトーンだ」と逆手にとってみせたのである。
こうして江戸時代の人たちは賢いものをたくさん発明したが、たとえば、あのジャンケンというものも、江戸の終わりに日本で生まれたと云われている。云うまでもなく、グー、チョキ、パーの三つの手のかたちで勝敗を決めるわけだが、パーがグーを制するのは誰しも思いつきそうなこと。ここで讃[たた]えたいのはチョキの発明である。
あたりまえだが、グーとパーだけでは勝負にならない。そこへチョキという第三の手が加わったことで、ジャンケンはじつにシンプルかつ奥深い遊戯になった。
この「三番目」の存在が気になる。
というのも、この世にドラマをもたらしているのは、いつでも、「三番目」ではないかと思われるからだ。
なにごとも一対一では角が立つのである。第三の男が公平な目でジャッジするべきで、それでも片づかないときは、助っ人や後ろ盾といったものが必要になってくる。でなければ、いつまでも睨み合ったままになり、三人目があらわれないことには、「過半数」という言葉もうまれてこない。
言葉の上で云えば、「三」の効用を説いたものに、「三人寄れば文殊の知恵」という諺がある。あるいは、「三度目の正直」というのも、よく耳にする言葉だ。
もちろん、いいことばかりではなく不都合なこともあって、三人で将棋はできないし、麻雀もできない。男前を競う世界において、「三枚目」といえば、一段下に見られた道化役と決まっている。
もっとも、仏像を拝観したときに気づくことだが、脇侍[きようじ]と呼ばれる引き立て役が両脇にいることで、はじめて中心となる仏様か際立ってくる。デュオに中心人物はいないが、トリオが横並びになれば、自[おの]ずと「センター」が生まれてくる。
これは翻して云うと、優劣がより明確になるということでもある。男女の三角関係にも通じるところがあって、二人だけならうまくいっていたのに、「三人目」が加わったことで、事態は、なんともややっこしくなってくる。
三という数字は二つに割りきれないがゆえに複雑な状況を生み、その一方で、割りきれないがゆえに、決まりきったものにあたらしい展開をもたらす。
グーでめパーでもなく、右でも左でもなければ、白でも黒でもない。
白と黒のあいだには百通りの鼠色を育んだ豊かな可能性がある。
とかく「白黒はっきりしない」と揶揄され「グレー・ゾーン」と云えば、曖昧であったり、疑わしいときに用いられるのが常だが、白黒はっきりしない美しさもあるのだと、曇り空を見上げながら考えた。