(巻二十六)らあめんのひとひらの肉冬しんしん(石塚友ニ)

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(巻二十六)らあめんのひとひらの肉冬しんしん(石塚友ニ)

8月24日月曜日

散歩:

ハイスクール・コースを歩いた。お勉強が始まったのかな?グラウンドが静かだ。

本日は三千三百歩で階段二回でした。

読書:

高瀬舟』を読んでいて「疑懼[ぎく]」と云う言葉を知りました。

《 喜助は世間で為事[しごと]を見つけるのに苦しんだ。それを見つけさえすれば、骨を惜しまずに働いて、ようよう口を糊[のり]することの出来るだけで満足した。そこで牢に入ってからは、今まで得がたかった食が、ほとんど天から授けられるように、働かずに得られるのに驚いて、生まれてから知らぬ満足を覚えたのである。

庄兵衛はいかに桁が違[たが]えて考えてみても、ここに彼と我との間に、大いなる懸隔のあることを知った。自分の扶持米で立てて行く暮しは、折り折り足らぬことがあるにしても、大抵出納[すいとう]が合っている。手一ぱいの生活である。しかるにそこに満足を覚えることはほとんどない。常に幸いとも不幸とも感ぜずに過ごしている。しかし心の奥には、こうして暮していて、ふいとお役が御免になったらどうしよう、大病にでもなったらどうしようという疑懼[ぎく]がひそんでいて、折り折り妻が里から金を取り出して来て穴填[あなう]めをしたことなどがわかると、この疑懼が意識の閾[しきい]の上に頭をもたげて来るのである。

一体この懸隔はどうして生じて来るのだろう。ただ上辺だけを見て、それは喜助には身に係累がないのに、こっちにはあるからだと言ってしまえばそれまでである。しかしそれはうそ[難漢字]である。よしや自分が一人者であったとしても、どうも喜助のような心持ちにはなれそうにない。この根底はもっと深いところにあるようだと、庄兵衛は思った。

庄兵衛はただ漠然と、人の一生というようなことを思ってみた。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う。万一の時に備える蓄えがないと、少しでも蓄えがあったらと思う。蓄えがあっても、またその蓄えがもっと多かったらと思う。かくのごとくに先から先へと考えてみれば、人はどこまで往って踏み止まることが出来るものやらわからない。それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気がついた。 》

わたしもこの疑懼という厄介者に取り付かれている。

旨い物を食いたいということもなく、面白いことをしたいわけでもなく、長生きをしたいとも願ってはおらず、そっと心静かに生きて最期におだやかな死をたまわりたいと願っているのです。

ひんやりと人の世遠し木下闇(福神規子)

ところが、この疑懼という奴が煩いのです。仕方がないか。

足るを知るそう言われても青蛙(川辺幸一)

願い事-図々しいお願いですが、叶えてください。