「悪が私を生かしてくれる - 中島義道」人生、しょせん気晴らし から

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「悪が私を生かしてくれる - 中島義道」人生、しょせん気晴らし から

じつは、私には「眠られぬ夜」というものがない。いつも床について五分とたたないうちに眠ってしまうのだから。私は生活のリズムとか規則を一切考慮していないので、リズムが乱れることはない。何の規則も課していないので、不規則になることはない。人はいつか眠るものである。だから無理して眠ることはない。翌日いかに大変な仕事が控えていても、眠らなくてもいい。眠い目をこすりながら辛い仕事をすることも、また人生の妙味である。
というと、何の悩みもないのかと疑われるが、それは大違い。あまりにも悩みが多く、それにあまりにも過敏に対応してきたので、麻痺してしまっているのかもしれない。
子供時代、私はとても不幸であった。殺される寸前までいじめられたわけでもなく、冷酷な差別を受けていたわけでもない。いま思うと、(素人診断ながら)統合失調症(分裂病)に強迫神経症が併存している、少なくとも境界型精神病患者であった。とりわけ死ぬことが恐ろしく、一日中それで苦しみ、「僕は死ぬ、僕は死ぬ」というおまじないをかけると、記憶喪失に近い状態に陥った。夜中に大声で泣いて、家族を困らせることもあった。しかし、誰もこのことをまじめに取り上げてくれなかった。私は、小学校高学年の頃、人生ってこんなに辛いのなら、いっそ死んでしまおうかと時折考えていた。
発病しなかったのが不思議であるが、苦しみながらも自分のうちで転がり落ちないための必死の工夫を考案し続けていたのであろう。さらに、受験勉強が転落を妨げてくれ、その後大学で哲学にのめりこんだことが転落防衛の仕上げをしてくれたようだ。気が付いてみると、次第に生きる力を蓄え、生きるのがラクになっていった。小学生の頃より中学生の頃のほうが、それより大学時代のほうが、そして三十歳を過ぎてからのほうが、はるかにラクになっていった。
哲学は、私をさまざまな面で救ってくれたが、中でも死ぬことをはじめ凄まじく理不尽な世界に投げ込まれた自分は恐ろしいほど不幸だと「言っていい」環境は、私にとって何より貴重なものであった。大森(荘蔵)先生に「神は世界を創る前に地獄を創っていたという説があるんですよ」と言うと「そんな、この世界だけで十分地獄なのに」という言葉がふっと返ってくる空気は、私を癒してくれた。子供の頃、私が不幸だったのは、こう言えないことであり、誰も彼もが子供に明るい積極的なふるまいを期待していたからだ。
こうして、人生の暗い面(広い意味での)悪が私を生かしてくれることに気づきはじめた。なんで世界はこんなに矛盾と理不尽と悪に満ちているのだろうと思うと、心は癒されるのだ。どんなに懸命に生きても、みな死んでしまい、人類はやがて滅びてしまう、と実感すると心は平静になるのだ。
いまでも、時折たまらなく虚しい時は暗い部屋で独り酒を飲みながら、もうじき死んでしまうことを考える。あの人もこの人も死んでしまったと思う。哲学者たちは真理を求め、善を求め、そして勝手な答えを提出してみなチリになってしまった。これって、一体何なのだろう?パスカルの言うように、すべてが「気晴らし」なのだ。サルトルの言うように、すべてが「無益」なのだ。こう確信して、酒をぐいと飲み干すと、不思議に生きる勇気が湧いてくるのである。
勢いで、もっと考えてみる。すべての現象は実は偶然に起こっているだけなのかもしれない、時間は無いかもしれない、私はいないのかもしれない......。すると、さっき考えていたペシミスティックな世界像は一掃され、そのすべてはただの幻想であるという思いが増してくる。すべては無駄なのではない。そんなセンチメンタルなものではない。ただの無なのだ。
そう考えて、ふと気づくと、朝日が部屋を照らしている。テーブルの上にはぐい飲みと徳利が置いてあり、簡素な肴もわずかに残っている。私はそのままベッドに転がり込んで、あっという間に眠ってしまったのだ。いや、そうだろうか?私は果たして眠っていたのか?ただの無だったのではないか?昨晩は在ったのか?すべては、ただの幻想なのではないか?それにしても、なんでこんなにすっと寝入ってしまうのだろう?健康だからか?老化現象か?いや、単なる馬鹿なのかもしれない、と思い巡らして、また新しい日に向かうのである。いつか、永遠に目の覚めない日を迎えるだろうと思いながら......。