「いろんな人 - 出久根達郎」文春文庫 95年版ベスト・エッセイ集 から

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ポン引きに誘われて、宇都宮から足尾の銅山まで山越えの途中、赤い毛布をかぶった男と道づれになる。男は「茨城か何かの田舎もので、鼻から逃げる妙な発音をする。」「この芋はええエモだ」などと言う。
とは、漱石作『坑夫』のひとくだりだが、まさしく私がその「茨城か何かの田舎もの」で、赤毛布[あかげつと]こそかぶらなかったが、似たようないでたちにて東京へ出てきた。
やっぱり「鼻から逃げる妙な発音」をしていて、皆に笑われた。笑われているうちはよかった。相手を怒らせてしまったことがある。
古本屋の小僧になって、まもないころ、本を買ってくれた中年の男性が、ふいに、それこそ全く突然、どなりだしたのである。
「君の態度は客に対してなっていない。客を見下している。非常に無礼だ。つつしみたまえ」とまくしたてた。
私はあっけにとられてしまった。相手の言い分が理解できない。客を軽蔑するような物言いも、動作もしなかったはずである。ごく普通に「ありがとうございました」と礼を述べて、軽く頭を下げただけである。頭の下げ方が浅すぎるというのだろうか。
しかし商人に口答えは禁物である。釈然としないまま、私はわびを言い、深々と叩頭[こうとう]した。客がいきなり声を荒らげたわけは、じき判明した。
店番をしている私に、番頭さんが出先から電話をよこしたのである。
「君、そうツンケンしなさんな」と番頭さんが用件を伝えたあとで、急に語調を変えた。
「それと、ぶっきらぼうな話し方を改めなさい。どうも君のしゃべり方は、横柄で耳ざわりだ。お客さまが気を悪くするよ」
悪くしたのである。
要するに、「妙な発音」のなせるわざであった。のちに知ったのだが、わが故郷を含む北関東一帯は、言語学者にいわせると、有名な無敬語地域なのだそうである。老若の男女が、ほとんど対等で話している。敬語表現がないのだ。おまけに語尾が高くあがるイントネーションなので、慣れない人が聞くと、馬鹿にされたように聞こえるらしい。
商人には不適な訛りということになる。
早く東京弁になれなくちゃいけないよ、と番頭さんにさとされた。
私にとって、お国訛を茶化されるより、しゃべると、人が気を損じるということの方が、悲しく恐ろしかった。私は次第に無口になった。
これではいけない、と気をとり直した。私は一人前の商人にならねばならぬ。
商店街のはずれに、「話し方教室」の看板を見つけた。閉店後、ひそかにおとずれた。
出てきた教師をみたとたん、私は赤面した。
ときどき店に来る客だったのである。古い翻訳書を買う中年の人で、私が礼を述べるとと、必ず「どういたしまして」と答えるのだった。それが、どこの地方か凄い訛なのである。
その人が話し方の教師だというのだから、驚くわけだった。顔を見て、まさか、やめますとも言えない。私は入門の動機を語った。
ぼくは訛の矯正はしないよ、と相手が笑った。自分がご覧の通りだしね、と悪びれない。気の利いた会話の仕方、話題の見つけ方、等を教えるんだよ、と説明し、
東京弁を習いたいそうだけど、東京弁なんてちまらないよ。大体、江戸っ子の言葉遣いそのものが汚くてね。あなたは歌舞伎を見たことがある?」
ない、と答えると、いきなり声色を使いだした。
「わしてごんす。何ときついものか、大門へぬっと面をだすと、仲の町の両側から、近づきの女郎の吸付煙管[キセル]の雨が降るようだわ。とこれが伊達男の助六のセリフ。弱い奴ならよけて通し、強い奴なら向うづら、韋駄天が革羽織で鬼鹿毛[おにかげ]に乗ってこようとも、びくともするのじゃごぜえやせん。とこちらは侠客の幡髄院長兵衛」
「お上手ですねえ」世辞でなく感心した。
「なあに、これも商売道具のひとつでね」と照れた。「お聞きのように、ね、ちっとも粋じゃないでしょう?野暮ったい。だからいいんです。人間くさいんです。折角の訛を捨てる人がありますか?」と私よりひどい訛でさとされた。中条さん、といった。私は店が終ると中条さん宅に遊びにうかがった。話し方教室は開店休業状態だった。中条さんは外国の地名人名を、明治の人がいかに苦心して漢字にあてたか、その研究をしていた。
「これは人名だが読めますか。この愛恩斯担は、アインシュタインです。この和馬はホーマー。ギリシャの詩人ホメロスです。ではこれ、わかりますか?」そう言って、『冷忍』と書いた。「レーニン。ね、昔の人は単に手近の漢字を安易にあてたのではない、とわかるでしょう?」得意気に鼻をうごめかした。
中条さんは、この研究をもう三十年も続けていると語った。学者になるつもりではなく、金のためでもない。好きだから続けている、と笑った。
東京には、いろんな人がいるものだ、と私は感嘆これ久しゅうした。