「裁判による解決 - 我妻栄」日本の名随筆91裁判 から

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「裁判による解決 - 我妻栄」日本の名随筆91裁判 から

家庭裁判所の調停で離婚が成立した場合にも、戸籍の届出は協議離婚の形式にするものが多いといわれる。戸籍に「調停による離婚」と記載されることを嫌うというのである。



調停手続のうちで離婚の合意が成立し、これを調書に記載すれば、それによって離婚は効力を生ずる。調停を申立てた者は十日以内に離婚届をしなければならないが、それは報告的届出である。もっとも、調停の内容が「何日以内に離婚届を提出すること」などというのであれば、協議離婚届をするという合意が成立しただけだから、それだけでは、離婚の効力は生じない。しかし、かような調停は、当事者の一方が届出を拒否するとどうにもしようがなくなる。だから、こんな内容の調停は、以前はあったが、近頃は行われなくなった。......解説書はこう説明している。
ところが、右の例は、折角調停で離婚が成立したのに、届出だけは協議によるものとしたいというのである。そのような届出は有効か、離婚は何時成立するのか。開き直って議論すると厄介なことになりそうである。しかしここでいおうとするのは、そうした届出の効力ではない。そうしたことをする人々の心情である。



われわれ日本人は、裁判によって合理的に事を処理することをどうしてこうも嫌うのであろうか。
加藤一郎君は、「日本では、法律は紛争解決のための有力・有効な手段とは必ずしもなっていない」と嘆き、「訴訟は、紛争解決のための合理的な、かつ明確・確実な方法である。それをわれわれが利用しないとなると、非合理的な不確実な解決方法によることになり、警察に相談をもちこんだり、弱い者があきらめて泣き寝入りしたり、債権取立の暴力団がはびこったりすることになる」と述べている(「書斎の窓」九一号)。
まことにその通りだと思うが、婚姻届の例はこれとも違う。加藤君の述べている場合は、加藤君も指摘しているように、訴訟に時間のかかることを勘定に入れて、訴訟外の解決が廉いと考えるのだろう。結局において廉くならない場合が多いのだから、そこに計算違いがあるが、それでもとにかく、裁判そのものを嫌っているのではない。
ところが、離婚届の場合には、裁判所の世話になって解決したということ自体をかくしたいのだ。裁判所に持ち出した、といえば、何か因縁をつけた、不当な要求をした、と世間から思われる。社会共同生活の反逆者扱いされかねない。それでは再婚にもさしつかえる。隣り近所からもへンな目で見られる。協議離婚となれば、話は違う。おだやかな話し合いの結果だと認めてもらえる。......というのであろう。

(後略)