1/2「同行 - 安東次男」中公文庫 芭蕉 から

 

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1/2「同行 - 安東次男」中公文庫 芭蕉 から

「白露をこぼさぬ萩のうねりかな」という、よく知られた芭蕉の句がある。門人の壺中、芦角が共編した『こがらし』(元禄八年)その他に収めるが、採茶庵杉風の門流を継いで採茶庵二世を名乗った梅人の十三回忌のために編まれた『栞集』(文化九年、成蹊撰)に、「白露もこぼれぬ萩のうねり哉」の句形で、「予閑居採茶庵、それが垣根に秋萩をうつし植て、初秋の風ほのかに、露置わたしたる夕べ」杉風筆の前書を付して収めるから、元禄五、六年、芭蕉が江戸に滞在した時期の句であろうか。この句にはまた、「しら露もこぼさぬ萩のうねり哉」としるした自画賛が遺されている。
採茶庵での即興の句は初案であろう。「白露を」と「しら露も」の句形のどちらがさきであるかはわからない。また芭蕉が、そのいずれか定稿とする意志があったのか、なかったのかも明らかにする資料がない。結局、読者がそのどちらに心を惹かれるかによって決めるしかないから、?原退蔵の『芭蕉俳句新講』などは「白露を」の句の方が出来がよいからこれを定稿と考えたい、と言っている。
「(発句は)こがねを打のべたる如く成べし」(『去来抄』)という芭蕉の作句態度に照せば、「しら露も」としたくぐもりよりも「白露を」の方が、一段と鍛えが利いているとも読めなくはない。しかし、個と連衆との二様の場を踏えた俳諧師に、二通りの句作りが見られることは自然ななりゆきであって、とりわけ芭蕉のばあいはそれがいちじるしい。意識的であったとすら言える。これを改案とは言い切れない。採茶庵での句形が「白露も」となっているのも、句があるじ(杉風)に対する挨拶の心をこめて詠まれているからだろう。「しら露も」とした句形も、じつは画賛として書かれたものであることを知れば、同じことが言える。画を別人が描いたか自分で描いたかということは問題になるまい。たとえ自画賛であっても、句にとって画は他者である。その画に打添うてしるされる句に、「白露を」と書起すようでは、俳諧俳諧にならない、とは容易に気付く。おそらく芭蕉は、殆ど無意識に「も」と書いたのだろうが、付け付けられることを半ば本能とした人間の言葉遣の妙味は、たった一助辞の変更の中に申し分なく現れていて、芭蕉の同行心を言うなら、これほどみごとな例も歩かに見ないのである。

そういう男が同行を誘って旅に出れば、当然誘った方は亭主であって連れは客であるから、連句における客発句、亭主脇句という約束に従わぬはずはなく、「ほそ道」冒頭でまず曽良のことばを杖として己が洗心のよすがとしたのもうなずける。室の八島のくだりで「同行曽良が曰く」と書起したのは、その点でも理にかなっている。それをそのまま日光登拝の句文につながず、あいだに仏五左衛門の話を挿入したのは、さきにも述べたとおり別時の神祗描写が二つ続いては紀行のはこびが面白くないし、室の八島で得た「あなたふと木の下闇も日の光」を「あらたう[ふ]と青葉若葉の日の光」と作り替えて、出闇(未練を断つ)工夫としたい気持がつよく働いたせいに違いないが、未練は一人では断てない。ふさわしいのは、まず曽良の句を立てて芭蕉がそれに打添う脇づとめの同行躰しかあるまい。正真の俳諧師ならそう考える。曽良発句、芭蕉脇の仕立は、じつは「青葉若葉」の句の心だった。

あらたう[ふ]と青葉若葉の日の光 芭蕉
剃捨て黒髪山に衣更 曽良
暫時は瀧に籠るや夏の初 芭蕉

日光登拝の句以下三句は、文を別にしても、芭蕉曽良との息の合った唱和の躰を取りながら、心にくいはこびを見せてくれる。芭蕉が神祗の句を作れば曽良が釈教の句を以て応じる、という仕立も紀行の道行を面白くする工夫であるが、前段二つの序章はそこにもよくひびいて、芭蕉自身の敬神の句は仏五左衛門なる人物の描写に扶けられて活きるし、曽良の僧体の句は神道曽良の面目をあらかじめ知らされていることによって新鮮に読める。つまり、神祗と釈教は不可分であって同じではないという点に読者が気付けば、芭蕉の敬神の句はやわらかな慈悲の光につつまれて見えてくる。一方、曽良の僧体の句も、荒ぶる神の姿を現してくるから不思議である。