1/2「天狗 - 太宰治」道化の精神 から

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1/2「天狗 - 太宰治」道化の精神 から

暑い時に、ふいと思い出すのは猿簑の中にある「夏の月」である。
市中は物のにほひや夏の月 凡兆
いい句である。感覚の表現が正確である。私は漁師まちを思い出す。人によっては、神田神保町あたりを思い浮べたり、あるいは八丁堀の夜店などを思い出したり、それは、さまざまであろうが、何を思い浮べたってよい。自分の過去の或る夏の一夜が、ありありとよみがえって来るから不思議である。
猿簑は、凡兆のひとり舞台だなんていう人さえあるくらいだが、まさか、それほどでもあるまいけれど、猿簑に老いては凡兆の佳句が二つ三つ在るという事だけは、たしかなようである。「市中は物のにおいや夏の月」これくらいの佳句を一生のうちに三つも作ったら、それだけで、その人は俳諧の名人として、歴史に残るかも知れない。佳句というものは少い。試みに夏の月の巻をしらべてみても、へんな句が、ずいぶん多い。
市中は物のにおひや夏の月
芭蕉がそれにつづけて
あつしあつしと門々の声
これが既に、へんである。所謂、つき過ぎている。前句の説明に堕していて、くどい。蛇足的な説明である。たとえば、こんなものだ。
古池や蛙とびこむ水の音
音の聞えてなほ静かなり
これ程ひどくないけれども、とにかく蛇足的註釈に過ぎないという点では同罪である。御師匠も、まずい附けかたをしたものだ。つき過ぎてもいかん、ただ面影にして附くべし、なんていつも弟子たちに教えている癖に御師匠自身も時には、こんな大失敗をやらかす。附きも附いたたり、べた附きだ。凡兆の名句に、師匠が歴然と敗北している。手も足も出ないという情況だ。あつしあつしと門々の声。前句で既に、わかり切っている事だ。芸の無い事、おびただしい。それにつづけて、
二番草取りも果さず穂に出て
去来だ。失笑を禁じ得ない。さぞや苦労して作り出した句であろう。去来は真面目な人である。しゃれた人ではない。けれども、野暮や人は、とかく、しゃれた事をしてみたがるものである。器用、奇智にあこがれるのである。野暮な人は野暮のままの句を作るべきだ。その時には、器用、奇智などの輩[やから]のとても及ばぬ立派な句が出来るものだ。
湖の水まさりけり五月雨
去来の傑作である。このように真面目に、おっとりと作ると実にいいのだが、器用ぶったりなんかして妙に工夫なんかすると、目もあてられぬ。さんたんたるものである。去来は、その悲惨に気がつかず、かえってしたり顔などしているのだから、いよいよ手がつけられなくなる。ただ、ただ、可愛いというより他は無い。芭蕉も、あきらめて、去来を一ばん愛した。二番草取りも果さず穂に出て。面白くない句だ、なんという事もない。二番草、ここが苦労したところだ。どうです。ちょっとした趣向でしょう?取りも果さず、この言い廻しには苦労しました。微妙なところですからね。でも、まあ、これで、どうやら、ナンテ。ただ、ただ、苦労の他は無い。何度も読んでいるうちに、なんだか、恥ずかしくなって来る。去来さん、どうかその「趣向」だけは、やめて下さい。
灰打たたくうるめ一枚
凡兆が、それに続ける。わるくない、農夫の姿が眼前に浮ぶ。けれども、少し気取りすぎて、きざなところがある。ハイカラすぎる。