『落語通談-野村無名庵』の解説 -藤井宗哲」中公文庫 落語通談 から

f:id:nprtheeconomistworld:20201215082204j:plain




野村無名庵は、本名を元雄という。明治二十一年八月二十三日、東京牛込二十騎町で生まれた。
家は代々毛利氏分家、周防岩国吉川家の江戸詰の家臣である。父は元行といい、千葉県大網で十人程の使用人を置く回漕問屋を営んで、東京の住居と往復していた。母は毛利家江戸詰家臣原家の娘ていで、元雄はその六人兄弟の長男である。
生後間もない頃にか、とにかく物心がつく頃には日本橋榑正[くれまさ]町(現在の中央区日本橋三丁目)に移っている。学校は日本橋坂本小学校から東京府立第一中学(現在の都立日比谷高校)へ進学した。この小学校、中学校の同期の一人に谷崎潤一郎がいる。中学校では潤一郎は一組、元雄が三組で、共に級長であった。
当時の日本橋界隈には宮松亭、伊勢本、人形町の末広、少し足を延ばせば両国の立花家と、江戸時代からの、俗にいう「本席」と称する一流の寄席があった。その頃の庶民の娯楽機関といえば、落語色物席が講釈場ぐらいのもので、東京下町の人々は、夕食後ともなれば気軽に足をむけたものである。御多分に洩れず元雄も本書の「はしがき」でも「ただ小児の時分からこの落語という芸に、なみなみならぬ興味を持っていた」と書いているように、両親に連れられてか、しょっちゅう寄席通いをしていたものと思われる。
彼が中学五年生の五月に父が千葉の作業場で事故死するという思わぬ災難から、やむなく中学校を中退して、医者の住み込み書生となった。この時、谷崎潤一郎は成績優秀な友を惜しんで、知人を紹介するから学資の援助を受けて学業を続けるように進言するが、それをきっぱり断ったという。そのあたりのいきさつは、『都新聞』の記者時代、木枕生の名で投稿する無名庵の演芸記事を再々起用した長谷川伸が「三ノ組の級長」(『文藝春秋』三十六年八月号)という、無名庵の回想録にくわしく書いている。
書生生活は一年ほどで辞め、遠縁にあたる、その頃羽振りをきかせていた五厘の春風亭大与志[だいよし]の事務を手伝うようになる。五厘というのは、寄席と芸人の間にたつ一種のマネージャーで、入場客一人につき五厘の手数料を天引きしたところからこの呼び名である。しかし、五厘の番頭生活もあきたりなかったのか、大与志の口添えで三代目古今亭今輔の弟子に入り、元輔の芸名で高座の人となる。高座では古典落語を演るという形をとらず、自作の漫談風な噺か、小噺をいくつか喋って、その後に百面相や役者の声色を聞かすという、どちらかといえば色物芸人に近かった。この頃からぼつぼつと先に述べた『都新聞』へ投稿を始める。
この寄席芸人としての生活も、その限界を知ったのか、もしくは投稿で自信を得たからか、文筆業を志すようになる。そして新聞雑誌へ花柳界、演芸界の記事を送る通信社の一つ「日本演芸通信社」に入り、『演芸画報』を初めとする諸誌へ、役者、寄席芸人の探訪記事を書くようになった。それらの記事は、何年間かの幕内生活の経験に裏打ちされたもので、他の記者には見られない軽妙酒脱な味があって、演芸ファンを喜ばせた。
こういった楽屋探訪記事を発表する際の筆名は『演芸画報』に限っていえば武島十郎、原町十三(または重三)、林七十郎と一見素浪人風な署名が多い。これらの名は、引っ越し好きな彼の住所、番地の語呂合わせである。ちなみに順からいえば小石川武島町十番地、同原町十三番地、同林町七十番地である。

彼は演芸記事を書きながら、一方で「慰め酒」「紙芝居」「エレベーターガール」「鶴の巣籠り」など、その数三百とも五百ともいわれる落語・講談の創作にも力をそそいでいる。そのうちの江戸の市井を扱った講談は『大江戸隣組』(昭和十六年刊)、『剣禅無刀流』(昭和十八年刊)に何作か収められている。これらは新講談というより、今日でも立派に時代小説として通用する作品である。
ペンネームといえば、雑誌社から新作の注文があると自身の名で発表することなく、そのつどあまり売れない、昔は大看板だったが当時は不遇を託[かこ]っている芸人の名儀を借用した。そして原稿料が届くとその何割かを「名前拝借料」として、代理人にそっと届けさせたという。その届け役もやはり不遇な芸人に依頼し、謝礼にしては充分すぎる金銭を渡したことはいうまでもない。
また、二代目談州楼燕枝を通じて友人になった、薩摩琵琶奏者である榎本芝水のために「城山の月」「凱旋乃木」「秋色桜」「松浦の太鼓」などの琵琶小曲をも作詩している。さらにこの一作だけと思われるが、明治、大正の小芝居の人気者であった、新派役者森三之助の追善記念狂言「森三之助」の脚本も書いている。ついでにいえばこの芝居を見ていた長谷川伸が、登場人物の一人に、まだ無名時代の長谷川が出てきたのには驚いたと、『よこはま白話』に書いている。このように彼の仕事は芸能万般多岐にわたっている。
長谷川伸といえば、先にも述べたように、無名庵が投稿時代から何くれと引き立てて貰ったことを終生徳としていた人物の一人である。無名庵は昭和十一年二月十一日付で「何や彼と匿名でコツコツ書き、一昨年は千八百余円、昨年は二千六百余円、税務所から査定され」た旨の手紙を伸に出している。芸界に住んでいる彼としては金銭のことは口にすべきでないことは承知の上だが、しかし長谷川伸にだけは素直に、その売れっ子ぶりを喜びとして報告している。いかにも無名庵らしい律儀な面を窺い知ることができる。
大正十三年、末の娘を四歳で亡くした彼は、これが大きな動機で日蓮宗に帰依する。その信心ぶりは法衣を誂えて半僧半俗の生活に入るという徹底したものであった。遺族の話によれば、毎朝神仏の水、茶、洗米は必ず自分で仕度をし、早朝に起きて勤行にたっぷり一時間をかけ、それから依頼原稿に執りかかったという。これは旅に出た場合も同様で、終生変わらなかった。それから名乗っていた元雄を姓名判断に従って、元基と改めたのも娘の死後からである。

彼を伝えるエピソードをもう一つあげると、大酒家ではないが酒が好きだったということである。これも遺族の話では、父元行ゆずりらしい。用向きがあって訪ねて来た芸人に、相手が酒好きの場合は、玄関口で立ち帰ろうとするのを引きとめ、自分で台所から一升瓶と湯呑二個を携えて来、それが昼であれ玄関先でのささやかな酒宴を始めたという。そんな飄々とした一面もあったらしい。
昭和十六年四月、本書の「はしがき」にも見えるように、情報局から廓・芸者・妾を扱った落語の演目を遠慮するように通達があった。この通達に添って落語協会、芸術協会、各席亭の幹部代表と無名庵らが協議し、「お見立て」「明烏」「付け馬」など五十三種の演目を、自粛禁演落語として、浅草寿町本法寺境内に「はなし塚」を建てて葬った。この時の費用やお膳立て一切は無名庵の奔走によったと聞く。これは勿論、戦後すぐ解禁になった。
昭和二十年五月二十五日の東京大空襲で、小石川武石町(現在の文京区水道一丁目)一帯は猛火に見舞われた。隣組の防火班長だった無名庵は、家族を避難させたその足で町会長のもとに罹災状況を報告に行く途上、煙にまかれて命を落としてしまう。享年五十九歳であった。のちに長谷川伸は「野村無名庵逸事」(『私眼抄』)の文末で「秀才というもののもつ、資質をこの人、実にもちいたり。惜しいかな、彼には機会が与えられざり」と、その溢れる才能の死を惜しんでいる。
話芸関係では本書の他に、江戸宝暦の馬場文耕から明治の春錦亭柳桜までの、講談・落語界の四十八人のエピソードを綴った『本朝話人伝』、ほかに三升家小勝の「私の生い立ち漫談」、尾上大五郎の「楽屋ばしご」「猫遊軒伯痴談話」「宝井馬琴談話筆記」などの芸談聞き書きがある。だが、先述したように、匿名や御名前拝借の発表が多いため、今日では無名庵の仕事の全容を知ることはできない。しかし、本書中の「珍選辞典-落語国の人々」からヒントを得て、安藤鶴夫に「落語紳士録」を書かせたように、『本朝話人伝』にしても、爾後の話芸研究の大きな基石となっていることは斯界の誰もが認めるところである。
生涯を話芸に尽し、常に縁の下の人に甘んじた野村無名庵の業績が、歿後三十七年にして、再び装いを改めて世に出ることの意味は大きく、寄席ファンの一人としてなんともよろこばしい限りである。