「正蔵の定期券 - 江國滋」旺文社文庫 落語美学 から

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正蔵の定期券 - 江國滋旺文社文庫 落語美学 から
 

いまではほとんど見られなくなって、いっそ重要文化財扱いをしたくなるような、そんな昔ながらの三軒長屋が、下谷稲荷町の地下鉄の駅近くの狭い路地にあって、そこに林家正蔵が住んでいる。
玄関で案内を乞うと、障子ごしに「さあ、どうぞ奥へ」と、打てば響くようにご本人の返事がかえってくるのだが、そういわれたって、奥はもう台所ではないかという、その台所と玄関を画す分水嶺ともいうべき六畳間の中央に、ことし六十九歳の正蔵は、五十歳ぐらいの若々しい顔をして、端然とすわっている。いつたずねていっても、「いまコーシー(珈琲)をいれますから」といって、パーコレーターを持ち出してきたり、「牛めしがありますけど、めしあがりませんか」とすすめてくれたりしながら、如才なくよもやまの雑談をはじめる。
その愛想のいい正蔵が、寄席に出勤する時間になると、とってつけたような調子で「では、どうぞごゆっくり遊んでってください」といいおいて、いきなりスタスタと出ていく。残された当方としては、あとに残っておかみさんと将棋をさすわけにはいかないではないか。だから「私も途中までいっしょに行きます」と、あわててあとを王のだが、正蔵は一度もうしろをふりむかずに、さっさと地下鉄の入口にもぐりこんでしまう。
はじめは、なにか気を悪くするようなことでもいったんじゃないかと考えてしまったが、何度かそんな経験をするうちに、だんだんわかってきた。つまり、これが“正蔵流”なのである。一つには、せっかくたずねてきたのだから、自分がいなくても、少しでもゆっくりしていってもらいたいという純粋な親切心のあらわれであり、もう一つは、いっしょに出るのはいいが、タクシーで送りましょうなどということになっては相手に申訳ないというわけで、いつでもさっさとひとりで出掛けてしまうのだ。
自分なりの理屈とモラルを、この人ほど大事にする人はいない。例えば、各種のパーティーの案内状を見て、会費いくらいくらとあれば万障繰り合わせて出席するが、〈ご招待〉と書いてあったら原則として欠席して、その代り当日必ず祝電をうつ - といったような一種独特のルールを、この人はいくつも持っていて、断固としてそのルールにのっとって行動する。そのため、時に頑迷固陋もきわまれりというような突飛な行動に出ることさえあるのだが、その場合でも、正蔵にしてみれば、そうするのが当然だからであり、あくまで大まじめなのだ。
「どうぞごゆっくり」といい残してさっさとおりていった、その地下鉄について、こんな話がある。
きちんと定期券を買って寄席にかよっている正蔵が、ある時、同じ区間なのにわざわざ切符を買ったので、弟子が「師匠、定期忘れたんですか」と尋ねると、「いや、ここに持っているよ」といってちゃんと定期入れを出してみせた。期限切れでもなければ、行先がちがうわけでもない。それなのに切符を買うのはなぜか。実は、この日、これが二度目の出勤だったのである。
「いいかい、通勤定期ってものはね、勤務先、われわれでいやァ寄席だァね、その勤務先へ毎日行って帰ってくるためのもんで、それだからベラ棒に安くなっているんだよ。きょう、俺はいったん家ィ帰ったろ?二度往復するのに定期使っちゃ悪いじゃねえか」
正蔵は弟子にそういって説明したという。卓然として独住する正蔵の面目躍如というところだが、これが、一事が万事なのである。
ついこの間も、矢野誠一のところに正蔵からこんなハガキが舞い込んだ。
「この間の精選落語会の出演料、帰宅の上あけてみたしたら、いつもよりたくさん入っていました。値上げしてくだすったのだろうと、うれしく思いましたが、正直いって、これは私には多すぎます。別便で三枚お返ししますから、みなさんでコーヒーでも飲んで下さい」
この話が朝日新聞の夕刊に小さな記事になって、矢野は、お金はもどってくるわ、落語会のPRにはなるわで、すっかりエツにいっていたが、そのあとで、東京中日新聞のUさんが、
「デスクに怒鳴られちゃったよ、『おまえ何をしてるんだ。これは近来の美談じゃないか。ウチならトップ記事だぞ』って、......どうして、ウチにさきに知らせてくれなかったんだよ」
切歯扼腕したという付録までついている。トップ記事云々はいかにもオーバーだと思うが、しかし、お金を辞退するという行為がいまどきいかに珍重すべき“壮挙”であるかということを、この話は端的に物語っている。
山口瞳の筆法をもってすれば、正蔵という人は、さしずめ「リチギ人間」 - いや、混濁の現代にあってはいっそ「フシギ人間」というべきかもしれない。