「行政調査を求める通報文の真偽と偽計業務妨害の成否 - 早稲田大学教授杉本一敏」

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「行政調査を求める通報文の真偽と偽計業務妨害の成否 - 早稲田大学教授杉本一敏」

大阪地裁平成30年2月26日判決

【論点】
法令違反があったとする通報に基づいて行政機関による調査が実施されたが、法令違反の事実が認められなかったという場合に、通報行為につき、調査対象者に対する偽計業務妨害罪が成立するか。
〔参照条文〕刑233条

【事件概要】
被告人Xは、医療法人(以下「本件医療法人」)を設立して歯科医院を経営していたAと婚姻しており、平成25年に婚姻費用分担審判の申立てを行った。その際、Xは、平成24年に本件医療法人からAの預金口座に振込入金された約2370万円を婚姻費用分担金算定の前提にすべきだと主張したが、Aは、上記金額のうち役員報酬220万円を除いた残額は、Aが本件医療法人のために立て替えた費用につき本件医療法人からAに対する過払いや二重払いが生じたので、それを「仮払金」として処理したもの(追って本件医療法人に返金すべきもの)であり、自身の給与収入ではないと主張し、同申立事件の裁判所は、Aの主張を採用した(その後、平成26年に、XとAとの間で離婚の和解が成立した)。
Xは、平成27年1月に、Aは本件医療法人から配当を毎年(年間3000万円)受け取っていた、Aは個人使用目的にもかかわらず東京都内のマンションを本件医療法人名義で購入した、などの事実を記載し、その調査を求める旨の書面
(以下「本件書面」)を大阪市保健所に宛てて郵送した。保健所は、これらの事実が医療法54条(「医療法人は、余剰金の配当をしてはならない。」)に違反している疑いがあると判断し、医療法63条に基づき、平成27年2月に本件医療法人に電話連絡し(Aは、電話連絡を受けた4日後に、本件医療法人に対し「仮払金」である約3455万円を返金した)、3月に聞き取り調査を実施したが、上記違反の疑いについて立ち入り調査の必要性を認めるまでには至らなかった。
Xは、虚偽の事実を記載した書面を郵送して、保健所職員に電話連絡や聞き取り調査を実施させ、その結果、A及び本件医療法人に対応を余儀なくさせたとして、偽計業務妨害罪で起訴された。
【判旨】
〈無罪〉Aは、問題とされた本件医療法人からの振込入金は「仮払金」であり、マンションは本件医療法人の関東における活動の準備拠点として購入したものである、と説明しており、これらの説明は不合理なものとはいえず、本件書面が真実を記載したものとは認められない。しかし他方、本件書面送付が行われた時点では、「本件医療法人において、Aに対する多額の仮払金が平成20年以降累積・継続していることについて、医療法54条に違反しているのではないかと疑いを持たれ、医療法63条に基づく報告徴収を受けても仕方がない状況」が認められ、また、「本件医療法人が関東に活動を広げるための準備行為をしたことを裏付けるような客観的な証拠がないことも踏まえると、本件マンションの購入がAの個人的な利益のためであったとの疑いを抱かれてもやむを得なかったというべきである。」「そうすると、......本件調査に至る過程において〔保健所の〕担当職員に錯誤があったとは認められない。加えて、本件書面では事実の有無について断定的な表現が用いられているが、行政機関に対して行政調査を求める通報文において、疑いの程度に応じた表現を求めるのは酷な面があると解される」。「通報の内容に係る疑いが通報によって通報の内容が事実と異なると判明した場合に、直ちに当該通報が『偽計』に該当すると解するのは、『偽計』の範囲が広範になりすぎ相当ではない。」

【解説】
1 偽計業務妨害罪(刑233条、以下「本罪」)にいう「偽計」は、業務妨害の被害者に直接向けられたものである必要はなく、それを介して被害者の業務遂行に支障が生じ得る限り、「第三者」に向けられたものでも足りる(他の新聞社の新聞と題名・題字が似た新聞を発行して講読者をだまし、講読者を奪おうとした行為につき、他の新聞社を被害者として本罪の成立を認めた大判大正4・2・9刑録21輯81頁)。本件の公訴事実も、Xは偽計によって保健所(第三者)を調査へと駆り立て、それによってA及び本件医療法人(被害者)の業務を妨害した、という構成になっている(本件では問題とされていないが、虚偽の通報によって保健所に不必要な調査を実施させたとして、保健所に対する本罪の成否を考えるという理論構成も想定し得る)。
2 本罪にいう「偽計」は、虚偽を告げて人を錯誤に陥らせること(欺罔)以外に、人の錯誤を利用することや、誘惑など、人の意思に対する不正な働きかけ一般を広く含む、とする見解が有力である。もっとも、本件においては、事後的に初めて虚偽と判明した通報が、上の欺罔(の意味にいう偽計)に該当するか、という点だけが問題となっている。
3 本判決は、通報された内容が、事後的・客観的に「事実と異なる」(虚偽)と判明したとしても、そこから直ちに、通報行為が「偽計」(欺罔)に該当するものと解すべきではないとしている。(本件のような)通報は、法令違反の事実の存在を保障する行為ではなく、法令違反の「疑い」があるという事実を報告して、行政機関に法令違反の存否につき調査を求める行為である。このような通報が報告しているのは、調査の必要性を裏づけるに足りる法令違反の「疑い」事実にすぎず、「法令違反の事実」それ自体ではない(本判決が言うように、法令違反の事実が存在するかのような「断定的な表現」が用いられていたとしても、この点に違いはない)。したがって、「疑い」事実が客観的に存在していた以上、通報として何ら虚偽は認められず、本罪は成立しないことになる(なお、本判決とは異なり、通報内容が事後的に虚偽だと判明したならば通報は客観的に「偽計」に該当する、と解したとしても、通報者が通報内容を真実だと信じていた場合には、どのみち本罪の故意が欠ける)。
4 なお、本件とは異なり、法令違反の「疑い」事実が存在していたが、それを通報した通報者自身は、本当は法令違反の事実がないということを知っていた、という場合には、このような通報者に本罪成立を認める余地が残るように思われる。このような結論を(も)導くためには、偽証罪の「虚偽の陳述」に関する「主観説」の発想を援用し、「偽計」における「虚偽」も、「自分の認識している内容と、陳述した内容が異なっていること」(つまり、「調査の必要性はない」と認識しているのに、「調査の必要性がある」かのように疑い事実を報告していること)、として理解する必要があるだろう。