「金田一家をめぐる誤解 - 金田一秀穂」ベスト・エッセイ2006から

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金田一家をめぐる誤解 - 金田一秀穂」ベスト・エッセイ2006から

金田一というのは名前がいけないと、ずっとおもっている。
これが鈴木とか田中であればどんなにいいだろうと思ったことは数知れない。
銀行や、病院で「キンダイチさ~ん」と名前が呼ばれると、待っている人たちの目線が一斉に動き出すような気がする。私が立っていくと、ひそひそと何か小声で話されていたるような気がする。にやにや笑われているような気もする。妄想であるのかもしれないのだけれど、どうもそうなのだ。
初対面で自己紹介をさせられるときも、あまりいい気持ちがしない。「キンダイチです」と言うと、たいていの場合、相手は「あのキンダイチさんですか」と聞いてくる。「はあ。まあ」と曖昧に言うと、「やっぱりご親戚の......」などと言ってくる。「あ。はい、次男です」と言うと、「お父様はあの......」と言うから、「はい、探偵をしています」と答える。これが田中や鈴木であれば、こんなことにはならないだろう。
読み方を間違えられることは多い。だいたいがカネダさんだと思うらしい。一はハイフンが何かだと思うのだろうか。姓と名前の間にハイフンをつける習慣は日本語にはないと思うのだが。
しかし、横溝正史氏や金田一少年の事件簿のおかげで、すんなり読んでくれる人は以前よりだいぶ増えた。
キンダイチという名前のおかげで、私も本を書かせてもらったり、テレビに出させてもらったりしているのだから、最近はこの名前に感謝することも多いのだが、しかし、いわれのない誤解を受けることもあって、困ってもいる。
まず、世間の人は、国語学者と国文学者の区別が付いていない。そうして、国文学者は作文が上手だと思うらしい。そもそも国文学者は一般に文章が上手である、というのが誤解であるけれど、キンダイチ家の人間は作文がうまいのだ、と思うらしい。
私の父親も祖父も国語学を研究した人であるが、国文学者ではない。文章を書くのはあくまでも余技にすぎない。だから、文章を書いて幾ばくかのお礼をもらうことがあっても、それは偶然にすぎない。文学的感受性ということを考えると、京助にはあったが、春彦にはほとんどなかったと言っていいと思う。
私など、さすがキンダイチさんだけあって、中身はないけど文章はよみやすい、などと言われる。ちっとも「さすが」ではない。京助も春彦も日本語を科学的に分析することは得意であったが、それはむしろ、理数系の才能に近い。論理とか客観姓を重んじるのであって、芸術的直感を働かせるような分野ではない。
キンダイチさんのこどもはなぜか必ず、中学高校と、初めての学年のときには国語科の先生が担任になる。私がそうであり、兄がそうだった。私の家には二人こどもがいるが、二人ともそうだった。不思議なことだが、キンダイチさんのこどもに対して、先入観があるらしい。いい先生も多かったけれど、なかには、「キンダイチさんなのに、どうして国語が得意じゃないの?」などとおっしゃる先生もいた。困ったことである。

私の家は、たまたま、国語を生業[なりわい]として三代続いた。しかし、それは、家業を続けるとか、世襲するとかいうのとは少し違うと思う。家産や土地があるわけではない。家元制度とか地盤とかがあるわけでもない。継承するのはいくらかの本といくらかのネームバリューである。研究の世界にネームバリューは何の役にも立たない。最初の一歩からみなと同じなのだと思う。そういうことでは、相撲や野球の世界と似ているのだろう。二代目だからといって、うまくいくはずのものではない。
しかし、教育というのがあるのではないか、というのが、キンダイチ家をめぐる二番目の誤解である。
おうちでは、きっと、正しい日本語を使うようにしつけられたんでしょうね、とか、言葉遣いには厳しいお父様、おじい様だったんでしょうね、とか、謹厳で上品な家族を想像する人は多い。
京助が死んだのは私が十七のときで、一緒に住んでいなかったこともあり、あまり近くで接した思い出がない。京助の家に遊びに行っても、大抵留守だったりしていた。たまに在宅のときは仕事をしていて、騒いだり大声を出すことは禁じられていた。ただ退屈なだけだった。書斎の本を読んで過ごした。姉は怒られた経験があるらしい。明治の人らしく、怖かったのだろうと思う。晩年は老人性痴呆が進んでいて、穏やかなおじいちゃんだった。
京助は幼い息子の教育に厳しかったらしく、春彦は習字も漢文も大嫌いになったと言っていた。朝早く、学校に行く前にそういうことをやらされたものらしい。その反動で、こども達に甘かった。というより、自分の仕事に夢中になっていて、こどもの教育ということをほとんど考える暇がなかったのだろう。放任に近かった。
春彦は自分でも戦後すぐの頃、敬語廃止論をぶったように、いわゆるきれいな日本語を守ろうという考えからは外れていた。「日本語は乱れていない」という論陣を張って、いろいろな人と論争したりもした。心情的には旧仮名遣いが好きだったようだが、新仮名遣いを擁護した。新しい日本語にたいして、非常に寛容だった。
大橋巨泉の「ハッパふみふみ」とか、植木等の「ナンデアルアイデアル」というようなCMのことばを楽しそうに覚えたりしていた。
そんなふうだから、こどものことばをとがめ立てするようなことは一切なかった。
ただ、音に関しては、とても敏感だった。共通語のアクセントやガ行鼻濁音を身につけていることは重要なことであったらしい。また、がなる声や叫ぶ声を嫌った。そういう声を出したときだけは、顔をしかめて怒った。
どんな研究でもそうなのかもしれないが、国語研究は、自分の身の回りの観察から始まる。いろいろなことに好奇心持つことが出発点になる。その点で、春彦は私を教育したのかもしれない。一緒に旅行に出るのは楽しかった。地図を拡げ、汽車の時刻表を拡げ、今見える山は何か、川は何か、すれ違った電車は何か、~本線と名付けられた線路の通らない県庁所在地はどこか。
今でも印象に残っていることが一つある。山も川もすれ違う列車もないとき、車窓から見える平凡な風景というのは、こどもにとってそんなに面白いものではない。ただただ畑や家が続くだけだ。父は、東京を離れるにつれ、家の作り方や屋根の瓦の色が変わっていき、例えば上に立つアンテナがどんどん高くなっていくことを教えてくれた。今思えば柳田国男の明治大正世相史の方法である。平凡な風景の中でもさまざまな発見ができる。こういう眼を養ってくれたのはありがたいと思う。
春彦は息子を国語関係の道に進ませたかったのだろうが、しかし、国語をやれとは一切言っていないつもりだったと思う。春彦はたぶん、そのように勧めたと思っていないだろう。ただ、「辞書というのはお金が安定していていいぞ」とか、「学者はあまり人にヘイコラしなくていいんだぞ」とか、「会社員は歯車みたいでつまらないぞ」などと、ことあるごとに言い、息子に国語の道に進んで欲しいのだろうなあ、でもはっきり言えないんだろうなあと、愚息は推測した。
京助も、春彦にはっきり勧めたわけではない。春彦も自分のこどもの将来を強制するのは良くないと思っていたのだろう。しかし、自分のしてきた仕事をいいと思わなければ、息子にも同じ道を進ませたいとは思わないだろう。そういう意味で、二人とも自分の仕事に満足していたと言えるわけで、幸せであったと思う。