「「日常会話」という幻想 - 黒田龍之助」外国語の水曜日再入門から

 

「「日常会話」という幻想 - 黒田龍之助」外国語の水曜日再入門から

国語学習の目指すレベルとして、「日常会話ぐらいは」という人がいる。甚だあいまいな表現だが、これはいったい何を意味するのだろうか?
外国語の運用能力にもいろいろある。挨拶しかできないというものから、難しい専門用語を駆使することができるレベルまで、実にさまざまだ。まあ、専門レベルはちょっとたいへんそうだし(それにそういう難しそうなことは日本語でもちょっと……)、そんな特殊なことではなくて、日常的にふつうに使っている程度ができれば十分満足。それだったら、そんなに難しくもないはず。せめてそれぐらいは外国語でもできるようになりたい。
では、あなたは日常、どんな会話をしているだろうか?ためしに一日中の自分の発話を録音して吹き込んでみるといい。いやいや、しかしそこまでしなくても、少し考えてみればそんな単純なものではないことが想像つくことと思う。
たとえば夕食のときの話題(一人暮らしの人だったら、親しい友人と喫茶店で一時間ぐらいおしゃべりしているところを思い浮かべてほしい)。日本語のネイティブであるあなたは、たとえば日本語の文法は詳しく知らなくても、あらゆる活用形や構文を使い、複雑な文を作っているはずだ。「易しい会話だからあまり使わない文法事項」というのは、文語的なものを除けばほとんどない。ということは、もし日常会話に不自由しないレベルを目指すのであれば、文法は一通り使いこなせなければならない。
次に語彙。いったいどれぐらいの語彙を使っているかは各個人のヴォキャブラリーにもよるし、統計の取り方によってもさまざまな結果が出るだろうが、決して少なくはない。小学生用の辞典である金田一京助編『例解学習国語辞典』(小学館、一九九八年)をめくってみる。なかなか難しい語や慣用句、固有名詞なども含まれているが、大人だったらだいたいは知っているし、ふだんから使っているのも多い。これで二万八〇〇〇語ぐらい。単語はかなりのストックがないとふつうの会話もできない。
これを外国語に置き換えてみれば、日常会話のためには、文法も語彙もかなり身についていなければならないことが想像つく。どうやらあまりらくではなさそうだ。
さらに話題。気楽なおしゃべりを楽しんでいるとき、その話題は多岐に及ぶ。さらにレアリア、すなわち言語外現実を把握していなければ理解できない話題が多い。いくら文法が分かっていて語彙が豊富であっても、たとえば外国人の家に招待されて家族同士の会話をそばで聞いて理解するのはとてもたいへんである。〔そう、どこでも家族はことばを超えたところで共通に理解し合うところが多い。イタリアの作家ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』(須賀敦子訳、白水社、一九八五年)を読んでみるといい〕。こうなってくると、もはや単なる言語のもんだいではない。
日常会話をナメテはいけない。日常会話はある意味では会話能力の総決算、最高段階なのである。知識がしっかりあれば、語彙が限定されている専門分野での会話のほうがむしろ楽なのだ。
しかし、そんな高い(そう、ある意味ではとても高い)レベルの外国語を目指す必要もないのではないか?外国人同士の日常会話だったら、べつに理解する必要もない。こちらに向かって発せられたメッセージでもない限り、分からないからといって何も困らないはずである。
ある真面目な人が英語圏へ行った。地下鉄に乗っていたら車内の現地の人が二人でおしゃべりをしていた。耳を傾けてみたがちっとも分からない。その人は自分の英語能力がまだまだと思ってがっかりしたそうだ。
まったくナンセンスである。他人の会話なんて、よく分からなくて当然なのだ。そんなものはたとえ日本語だって分かるとは限らない。その上、地下鉄の中だったら雑音が多いから、そもそもよく聞こえないのがふつうではないか!
外国語の目標レベルを設定するのは、実はなかなか厄介た。むしろある狭い専門分野に絞ったほうが(たとえば金属工学の論文が読めるレベルなど)、なんとか目標を達成できるかもしれない。それでも会話となると、やっぱり難しいだろう(なにしろ話題を振るのはこちらばかりではないのだから)。
間違えなくいえるのは、自分の母語(わたしたちにとって多くの場合は日本語)のレベルを超えるような外国語習得は、絶対に不可能だということだ。日本語を、それこそ日常どのように使っているかが外国語にも必ず反映するのである。
外国語を学習していくと、必ず母語のことを考えなければならなくなる。