1/3「単身者の文学 - 川本三郎」岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

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1/3「単身者の文学 - 川本三郎岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

「持てあます西瓜ひとつやひとり者」
随筆「西瓜」(昭和十二年)の冒頭にかかげられた荷風の「駄句」である。「日乗」昭和八年十一月十一日の記述にもこの句がある。
「或年の夏、友達から見事な西瓜を一個貰つたことがあるが、大きすぎて一人ではどうする事もできない。折角の好意を無にする悲しさに、わたくしは
もてあます西瓜一つやひとり者
といふ発句を書送つて返礼に代へた」
この句は、荷風の独身者としての気分をうたったもの。十一月十一日の記述には、この句に加えて、独身者の気分が披露されている。
「わたくしは初に言つたやうに決して独身論を主張するものではない。唯おのづから独身の月日を送ることが多いやうになつたのである。何事にも苦と楽とは相半するものである。妻帯者には妻帯者の楽みもあれば、苦しみもあらう。独身者の生涯亦そのやうである」
荷風は、独身者だった。現代ふうにいえばシングルだった。結婚は二度しているが、どちらも長続きしなかった。はじめ、大正元年九月、三十二歳のときに、湯島の材木商の娘と見合い結婚したが、それは世間体のために結婚したようなもので、翌年の一月に父親が死ぬと、その翌月にはもう離婚している。結婚生活は半年も続かなかった。
二度めは新橋の馴染みの芸妓八重次と。大正三年八月に、友人の市川左団次夫妻の媒酌で式をあげたが、翌年二月にはもう離婚している。
二度の結婚経験はあるものの、荷風は生涯単身者で通したといって過言ではない。そして「断腸亭日乗」は、ひとりの単身者の記録として読むことができる。
荷風は「決して独身論を主張するものではない」と書いてはいるが、自ら単身者の気ままな生活を意識的に選び、それを楽しんだことは間違いない。
今日、荷風といえば、東京散歩者としての顔が強く意識される。隅田川べりの町をよく歩き、ときには中川や江戸川べりにまで足を延ばす。それも、天気がよいときに思い立って、気ままに町歩きを楽しむ。
たとえば、昭和七年三月二十四日。この日、荷風は中洲病院に定期検診に出かけた帰り、清洲橋を渡り、乗合自動車で葛西橋を渡り、荒川放水路の春の景色を楽しむ。そのあと再び乗合自動車に乗り、こんどは船堀川あたりの風景を楽しむ。放水路の長橋を渡り、大島町に出、そして最後に銀座に出て夕食をし、八時過ぎに家に帰っている。
気ままな町歩きである。こういう町歩きは荷風が、単身者だったからこそ出来た。妻子のある人間が、病院の帰りに、ぶらりと足を郊外に延ばし、夜遅くまで町歩きを楽しむことは、そう容易に出来ることではない。荷風が、東京の町をあちこち歩きまわることが出来たのは、彼が単身者であったからこそ。大仏次郎は「散歩について」という随筆のなかで、散歩は昔の日本では一般に認められていなかった、と次のように書いている。
「外出には羽織はかまに大小をさすのが社会的慣例だった日本のサムライに散歩を奨励したって実行不能だったろう。武士が散歩したら『お忍び』である」「町人の社会でも、堅気な家など、用のない外出を戒めたのは当然である。町をうろついたり、ごろつくのは遊び人だけに認められたことだ。日本で散歩を許されたのは、彼らか、閑に苦しんでいるご隠居だけである」(『大仏次郎随筆全集』第二巻、朝日新聞社、一九七四年)

荷風は、単身者(大仏次郎の言葉を借りれば「遊び人」か「閑に苦しんでいるご隠居」)であるからこそ町歩きのような、およそ実利実用とは無縁の遊びが出来た。そしてそのことに自覚的だった。戦時中から戦後にかけて「中央公論」の荷風の担当編集者だった佐藤観次郎(戦後、社会党衆議院議員になる)は回想記『文壇えんま帖-編集長の手記』(学風書院、昭和二十七年)のなかで、戦後、数年ぶりに会った荷風が以前にも劣らず元気横溢していて、七十歳を超えた老人と思えなかったと書いている。そして荷風はこう答えたという。
「家庭をもたないことが、却って若返りでしょうね。妻や子供をもつことは、わずらわしさが加わるだけで、この方が、余程気楽ですよ......」
さらに佐藤観次郎によれば、荷風は、家庭のある谷崎潤一郎と独身の自分とを対比させ、次のように語ったという。
「先日銀座を一緒に歩いた時ですがね、谷崎君には、あの銀座裏などには、少しも興味がないらしい。勿論昼間でしたが、ダンスホールや、いかがわしい所にも......谷崎君は、もう孫まで出来ているので、矢張り所帯じみてしまうのですね。すっかりおぢいさんになっている。私より随分若いのに......あれを思うと、家庭をもつと、人間、年老いてゆくんですよ。周囲がそうさせてしまうのですよ。これが、私は恐れるのですよ。矢張り家庭を持たずに、妻も子もなくって、これだけはしやわせだと思っています。私は、その点だけは、よくやってきたと時に考えます。こんな時代に、子供や孫などもったら、本当に苦労が多くて、一寸、死にきれませんからね......」
家族のある谷崎潤一郎は、銀座を歩いていてももう裏通りの世界に興味をもたなくなってしまった。平たくいえば「世帯じみ」てきた。それに比べると、家族のない永井荷風は身軽で、年をとってもなお自由に歩くことができる。荷風の東京町歩きが、長い単身者生活のなかで作られていった楽しみごとであることがわかる。
「西瓜」のなかにいかにも単身者らしい一日が記されている。
「午後[ひるすぎ]も三時過ぎてから、ふらりと郊外へ散歩に出る。行先さだめず歩みつづけて、いつか名も知らず方角もわからぬ町のはづれや、寂しい川のほとりで日が暮れる。遠くにちらつく燈火を目当に夜道を歩み、空腹に堪えかねて、見あたり次第、酒売る家に入り、怪しげな飯盛の女に給仕をさせて夕飯を食ふ。電燈の薄暗さ。出入[ではいり]する客の野趣を帯びた様子などに、どうやら膝栗毛の世界に這入つたやうな、いかにも現代らしくない心持になる。これも吾家に妻孥[さいど]なく、夕飯の膳に人の帰るのを待つもののゐないがためである」
家をぶらりと出て、見知らぬ町を歩き、一人の匿名の個人になって、身をやつすように小さな居酒屋に入る。こういう町歩きが出来るのも「わが家に妻孥なく、夕飯の膳に人の帰るのを待つもののゐないがためである」。明治四十一年十一月七日に、浅草散歩中に親友の井上精一(唖々[ああ])に投函した短かい手紙には、こんな単身者ならではの町歩きの喜びが簡潔に書かれている。「先刻電話をかけたら己に御帰宅。大川筋を散歩し浅草の一膳飯屋でめしを食つた。何といふ明月一寸吾妻橋から土手を歩いて帰らうと思ふ」。手紙は浅草郵便局から出されている。ひとりで浅草まで出かけ、隅田川べりを歩き、大衆食堂で一人食事をする。そんな単独行がよほど楽しかったから、途中で親友に手紙を書いたのだろう。
池波正太郎は画文集『東京の情景』(朝日新聞社、一九八五年)のなかで、「むかしの東京・下町に住み暮らしている人びとは、よほどのことがないかぎり、自分の住む町の外へは出て行かなかった」と書いている。昔の東京(下町)では「散歩」や「町歩き」という概念がなかったのである。荷風の町歩き - 山の手の人間が下町に散歩に出かけて行く - は、当時としては新しい行動様式だったといえる。