「漫研のころ - 園山俊二」日本の名随筆 漫画 から

 

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漫研のころ - 園山俊二」日本の名随筆 漫画 から

『現代漫画』水木しげる集の巻末作者のことばを読んで、僕はあきれ返ってしまった。
先ず水木さんが僕の郷里の松江市からわずか車で一時間足らずの境港市の出身であることに驚いたわけであるが、そんなことより、この天才の人生の波瀾万丈ぶりである。それは決してカッコいい波瀾万丈ぶりではなく、むしろ悲痛ていっていい人生なのであるが、水木さんの淡々とした筆にかかると、五十名の募集に五十一名の応募者のあった受験で、たった一人落っこちた人が水木さん自身であったこととか、ラバウルの戦闘で片腕が無くなってしまったこととか、思いつく仕事が片っぱしからうまくいかなかったこととかが、不思議なおかしさになってしまうのである。こんな凄い波瀾万丈人生を、さりげなく他人事の様に書かれると、我々のグータラ後輩は何も書くことがなくなってしまうのである。
水木さんの人生に比べたら僕の人生なぞ、それこそ波風一つ、そよ風さえも吹かなかったといってもいいぐらいのものである。従って僕自身に関しては語るべき何物もないのである。あるとすれば、それは友達のことである。友達というのは、つまりマンケンの友達ということである。マンケンとは漫研のことであって、決して連想されるM検といったようなことではない。
漫研、つまり大学漫画研究会なるものが各大学に結成されたのは、ほぼ昭和三十年頃のはずである。はずであるということは、はっきり研究会と名乗る以前に、同好者のグループの如きものが存在したと思うからである。なにも苦労して大学へ入って漫画を研究しなくてもという考え方があるが、今は猫も杓子も大学へ入る時代だから、たまたま漫画好きの人間が大学にまぎれ込んでいたと考えれば納得がいくはずである。そして紫藤甲子男とか東海林さだおとかいう猫や、福地泡介とか、かくいう僕の様な杓子が寄り集まって何となく出来たのが早稲田大学漫画研究会なのである。
大学の野球部からプロ野球の世界に入る人はそうざらにいるものではない。高田選手や田淵選手は、野球部全員の人数からいったら極めて特殊な例のはずである。大部分の選手は野球が好きで好きで、だからせめて学生時代納得のいくまでやるんだというのが普通で、それで飯を食おうと考えている人は極く少数のはずである。猫や杓子の我が漫研の面々もその点に関しては、野球部の補欠選手と同様な考えの集まりであったといって間違いはない。
当時、我々が描いては持ち寄って、それをスクラップブックにはりつけた作品集『ゴミ』という大変な代物が、今でも早大漫研に保存されているはずであるが、その作品を見ても、その実力は補欠といっても、まず二軍の補欠程度である。俺はジャイアンツに入って三番を打つなどという自信と実力を具えた猫は一匹もいやしないのである。ただやたら漫画が好きという杓子がズラリ並んだところだけは、動機が純なだけに可愛気があったというわけである。

当時、僕は学校から歩いて三分ほどの材木置場の二階に下宿していたのだが、学校へ出かけるのは大抵、お昼休みの時間である。そして教室を素通りして、学生会館の入口附近にある伝言板の前へ行くのである。その時間その場所へ行くと大抵、どれかの猫か杓子がたむろしているのである。今でもそうだが、大学は漫画には部屋を提供してくれないのである。もっとも、時の権力に楯つくのが漫画家の精神なのであるから、大学当局に可愛がられる漫研などということになったら、それこそナ-ンセンスであろう。さて、猫や杓子が集まって何をするのかというと、特に何もないのである。なんとなくくだらないことをしゃべって、たまにはお互いの作品をけなし合って、それで何となく安心して別れるのである。要するに、自信のない、金もないメガタが仲間を求めて群れているといった風なのである。自信もないわけである。今大活躍の東海林さだおはこのメガタ時代から実に十年間、見るべき作品を発表していないのである。
不安というものは、努力の真似事でもしてみることによって、幾分かはやわらげられるもののようである。そこでお先真暗なメガタの群れは、デッサン会を思いつくのである。誰が言い出したのか、漫画を描くには先ず基礎が大切というのである。デッサン会をやるには先ずモデルがいる。それから会場も必要である。ところで十人位人が集まると、面倒なことを何となく解決してくれる人間が、一人や二人必ずまぎれこんでいるもので、我々の仲間の面倒解決係は大抵、紫藤甲子男という男が引き受けてくれた。
会場は学校の近所の喫茶店の二階で、今は休業中の麻雀屋という次第である。モデルはどうやって連れてきたのか知らないがなかなかのグラマーで、猫や杓子は大張り切りである。雀卓を並べてモデルさんをその上に乗っけると俄然、漫画芸術に青春を賭ける成年群像といった雰囲気が生まれて、もうそれだけで立派な漫画が書けるような気分である。

ところが時は二月、休業中の麻雀屋だからたてつけがいいわけがない。寒風は遠慮なく裸のモデル嬢に吹きつけるわけである。暴力学生が話題になる昨今だが、青年とは本来やさしいものなのである。中でも漫画ゲイジュツに賭ける青年は特にそうである。手分けして七輪と炭を持ち込むのには、十分もあれば充分である。七輪に炭を盛り上げるもの、マッチをするもの、デッサンノートであおぐもの、窓のすき間にめばりをするもの、船頭には事欠かない大騒ぎである。我々としては、炭をカッカと燃やせば、当然部屋の温度は上がり、モデル嬢の筋肉はほどよく緊張がとけ、次々変わるポーズも悩ましく、我々の筆の運びも伸々と、そして漫画芸術へ一歩近づくとこう計算したわけである。まさか、炭が戦艦三笠のえんとつの如く、もうもうと煙を吐くなどとは夢にも思わなかったのである。船頭多くしてモデル嬢カチカチ山のタヌキとなるで、我々の芸術活動は始まると同時に幕を閉じたのである。
デッサン会というものは本来永続きしないものと見えて、その後、半年なり一年ごとに思いついては、せいぜい三回か四回止まりで立ち消えてしまった。漫画に関して努力したことといえば、せいぜいこの位のものである。
学校に四年籍を置けば、成績さえ普通なら当然卒業ということになる。卒業すれば社会へ押し出され、働かねばならぬ。親父だってそうそうはスネをかじらせてはくれぬのである。僕は大出版社のK社を受験して当然落ち、中の下どころの広告代理店に無試験でもぐり込んだが、三時間ほどいて、昼飯を食いに外出してそのままズラかってしまった。一緒に入った紫藤甲子男はそれでも半年位我慢していたのではなかろうか。
福地と東海林は三年で中退して、その後どうして収入を得ていたのか、友人であるこの僕にもさっぱり分からない。気がついてみたら、何時のまにか連中、漫画家として税金を納めているという。世の中何とかなるものとみえる。
漫画を職業としなくても、当時は大抵、会社の宣伝部とか広告代理店とか、なにかしら漫画に関係のありそうなところにもぐりこんでいて、今では課長さんなどとえらく出世している奴もいる。僕にとって大学、つまり漫研は良き友人を得る場所、時代だったような気がする。この暮れには昔の仲間と一杯やるつもりであるなどとは言わない。何故なら、我々はまだそれ程に年をとっていないからである。