「猫の道 - 水木しげる」作家と猫

 

「猫の道 - 水木しげる」作家と猫

僕が関西から東京にやってきて調布の寺のうしろに居をかまえた頃のことだった。
寺と家との境界線とおぼしき草むらに五センチばかりの小さな道みたいなものがついていた。
なんだろうと思ってみていると(その頃仕事場はその小さな道に面していた)猫が自分の道だといわぬばかりにゆっくりとあるいてくるではないか。こんなたのそうな猫は初めてだった。
毎日さまざまな猫が通り、大きいのは犬位あるのがゆっくり通る。シーッというと逆に「誰だ」といわんばかりににらみかえす。あまり失礼な態度なので窓からとび出しておどかしたが、ほんのわずか動いただけで、こちらの様子をじーっとみている。
なにを食っているのか知らないがアゴは二重になっている。
そして「下らんことするな」というような顔でみている。墓石はあるし巨猫の動作はゆっくりしているし、なんとなく気味が悪くて引下がったことがあるが。
それ以来、もっぱら観察だけにすることにしたが、それから時はたつ時代は進み生垣なぞも木の元気がなくなってしまって寺との境界線が分らなくなってしまった。あるといえば、うっすらと残っている猫の道だけである。
寺では早速ブロックの壁をしたが、一体「猫の道」はどうなるだろうと思ってみていると、そのブロック塀の上をゆっくりと猫があるいているではないか。
猫はその壁の上を逆うことなくあたり前のように自分の道にし、今も毎日さまざまな猫がゆっくり往来している。
こんな巨猫がいるだろうかと思われるような古猫は時時じーっとしてこちらの仕事の様子をうかがっている。
たまにシーッ、というと「なんだい」というかっこうでゆっくり去る。
時にはたのしげに鳥のさえずるのをじっとみていて二匹で寺の屋根に登り、小鳥をとろうとしたりする。
町で排気ガスの間をそそくさと逃げる猫と違って、きわめて幸福そうにみえる。
秋の日なぞは寺の屋根の上でひるねをしている。毎日猫をながめているので、つい猫の生活なぞ考え、うらやましくなってくる。あいつら幸福なんだ、そこいらのゴミ箱で食事をし、一日中ノンキに遊んでいる。
そして彼等は人間と違って死に対する恐怖心がない。いやむしろ、猫の方が死に関しては先天的に正しい認識をもっているのかもしれない。死は本来おそろしいことでもなんでもない一種のねむりなんだ。どうして人間だけが奇妙な恐怖心をもつのだろう。なんて考えてみる。
それに猫は「明日のことを思いわずらはない」これもかみしめてみたい生活だ。我々のアタマの中には、明日の心配がたくさんつまっている。
猫は今日もゆっくりと高架になった「猫の道」をゆく、この猫的生活こそ、我々の理想の生活ではないかと自問自答しながら、僕は十年一日のごとく苦しい原稿をかく。