「運転士〈冒頭〉 - 藤原智美」講談社文庫 運転士 から

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「運転士〈冒頭〉 - 藤原智美講談社文庫 運転士 から

二本のレールがカミソリのように光る。フロントガラスに粉雪がスプレーされる。勾配が徐々に大きくなり、運転士はだれかに背中を押されているような感覚を覚える。傾斜角千分の三十五の下り坂だ。
レールを断ち切るように前方にぽっかりと開いた暗い穴が、少しずつ大きくなっていく。運転士の目は穴に吸い寄せられ、ハンドルを握る右手にも力がこもる。スピードがひとりでに増し、電車はレールの上を滑るように進む。運転士はハンドルを少し戻し速度を抑えにかかる。しかしそれでもスピードは衰えることなく、電車はまっしぐらに進む。
〈トンネルの奥に隠された巨大な磁石にはだれだって抵抗なんかできっこない〉
両側の灰色のコンクリート壁がせり上がり、運転席に覆いかぶさってくる。車体を突き抜け運転席に侵入する音が、厚い重低音に変化すると、運転士は心のなかでカウント・ダウンを開始する。
〈四、三、二、一、ゼロ〉
あっという間に地上の光が吸い取られ、列車は地下へと突入した。途端にスピードが倍になったような錯覚が起こる。それは運転士にとって心地よい錯覚だ。まるで地上四階の高さから地下十階へといっきに滑り落ちていく感覚-。ワイパーのスイッチを切る。前照灯が闇をまっすぐに切り裂き、天井に等間隔で設置された隧道[ずいどう]照明灯が、光るテニスボールのように後ろへと飛んでいく。電車はさらに地下へと軌道を突進する。時刻は午前八時三十一分四十秒。
......フロントガラスの右斜め上あたりに、まるい発光体が夜空に飛来したUFOのようにふわりと浮かんでみえる。停車駅の明かりだ。それは右斜め上からしだいに真ん中へと移動しながら大きく広がり、ついに電車全体をそのなかにすっぽりと包みこもうと待ち構えている。
〈駅はいつでも午前三時のコンビニエンス・ストアーだ〉
電車はホームの直前まで迫っている。駅員の携帯灯が運転士へ合図を送る。彼はエアーブレーキのゲージを最大の四にする。それに反応して電車はすぐにスピードを緩める。そのとき、彼の頭のなかできまってまるい大きな風船が床に落ちて跳ねるのだ。
〈ブレーキのショックは、風船が床に落ちて跳ね返るくらい滑らかなものでなければパーフェクトとはいえない〉
彼はゲージを三に戻し、ブレーキの圧力を少し解除する。このタイミングこそがポイントだ。ゲージ四が長すぎると、電車は腰を撃たれた鹿のようにショックを受ける。その反対に短すぎると、今度は停車位置がずれて、ホームでいったん停車させた後、バックさせるというぶざまなことになってしまう。
〈どっちにしてもそれは運転士としての最大の恥だ〉
彼の想像力がつくりだした風船はいま、二度目のバウンドをして、空中から高速度撮影されたフィルムのようにゆっくりと落下していく。ゲージは二だ。ホームの柱の流れがゆったりとしたものに変わる。停止位置は残り十メートルを切る。ゲージを二から一へ、さらにゼロに向かって下げる。停止位置の一メートル手前でブレーキ圧力がついにゼロになる。その瞬間、これまで抑制されていた運動エネルギーが解放されわずかに息を吹き返し、電車が最後の一メートルを滑っていく。風船が床に静止する。
〈パーフェクト!〉
教則本によれば一段制動階段払い。しかし運転士にとってはバルーンのスローモーション落下。彼の頭のなかでいつもバルーンが落ちていく。
発車合図のブザーが車掌から届いた。ハンドルをニュートラルから力行[りつこう]と呼ばれる加速位置までいっぱいに引くと、車体がガツンと揺れゆっくりと動きだす。電車は再び光から闇のなかへと帰っていく。
〈光があふれたホームでは運転席は死んだも同然だけど、トンネルに戻った途端にそれは生き返る〉

......運転席に置かれた行路表は通過駅を結ぶ赤く太い線がしっかりと書きこまれ、専用の小型ライトに照らされている。計器パネルはそれぞれ、緑、青、黄色の光を放っている。柔らかな光が手元だけに集まるこの明りの配分が、運転士は好きだ。
行路表に記された定時と、計器パネルの横に置いた懐中時計の時刻とに開きが出ている。始発から六つ目の駅ですでに遅れは五十秒に達していた。次のホームの明りが見えてくる。嫌いな右カーブ右ホームの駅だ。左カーブならまだ見通しはきくが、右カーブはホームの客が見通せないのだ。彼は無意識のうちに身体を左側に寄せ、電車がホームに入る前に、カーブの突端にいる駅員の携帯灯を確認しようとする。しかし、ホームの端っこを歩く黒い学生服を着た高校生のグループが視界をさえぎって見えない。運転士さホイッスルを吹くが、高校生たちはまったく避けようともしない。駅員が軌道に携帯灯を振りだしたおかげで、運転士はそれをやっとどうにか確認する。
〈二度目のホイッスルを吹かなくよかった。できればホイッスルは吹きたくない。下品だ。〉
ホームのエッジを切るように電車は入っていく。運転士は目でその先端を追いかけながら、電車を慎重に滑りこませる。ホームの真ん中あたりまできて、ようやく前方すべてが視界に入った。ちょうど対向電車が乗客をホームに吐きだしたところだ。ラッシュタイムのざわついた駅の雰囲気が、走る電車のなかにもわずかに伝わってくる。
電車が静かに停止すると、トンネルにはなかった人いきれがたちまち運転席にも入ってくる。なまあったかい臭い。下車する乗客の動きが列車を揺すり、車体を支えるエアーが勢いよく呼吸する。
シッ、ハッ、シッ、ハッ、シッ、ハッ......。
彼は帽子をとり、髪を後ろにかき上げる。柔らかな髪、ツルンとした肌はまるで少年のようだ。二十五歳。運転歴一年。
発車合図がきた。計器パネルの信号灯は青になっている。しかし、すでに定時を六十秒ほど超過。
〈六十秒かあ、けっこうキツイな〉
彼はすばやくハンドルを引く。電車が軽くなったおかげで加速反応がいい。トンネルの壁の左手にあるPマークの標識が見えると同時に、彼はグングンとスピードを上げる。制限速度の七十五キロまでいっきに。しかし、これを一キロたりとも超えないように神経を集中させる。彼は制限速度に対して、ことのほか神経質だ。
〈もしも制限速度をオーバーし、自動制御装置が働いて、勝手に急ブレーキなんかかけられてはたまらない。そんなことになったら、きっと死にたくなる〉
速度が上がるとレールがキュルンキュルンと独特のきしり音で鳴いた。前照灯の光がダークブルーの闇を解放していく。
遠くの軌道上に、揺れる二つの光を発見。くっきりと浮かび上がった光は、電車の前照灯に弾かれるように柱の陰に逃げこんだ。彼にはそれが保線作業員の蛍光服だとわかっていた。ホイッスルを一度吹く。できるだけ柔らかに。
〈ご苦労様の合図だ〉
電車は少しずつ遅れを取り戻し、運転士の意識は運転だけに集中する。彼はいま地下十八メートルの世界を疾走している。