1/3「日記 - 加藤秀俊」中公文庫 暮しの思想 から

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1/3「日記 - 加藤秀俊」中公文庫 暮しの思想 から



じぶんの経験を「記録」しよう、というふしぎな欲求を人間はもっている。いつ、どんなふうにしてこの欲求が形成されたのか見当がつかないが、とにかく、じぶんのしたこと、じぶんの見聞したことを、なんらかのかたちであとまで保存したい、と人間は考える。その欲求を、仮に、経験保存の欲求とでも呼んでおくことにしよう。
経験保存の欲求がはじめて現実化したのは、いうまでもなく人類が文字を発明したときである。歴史的にいうと、八千年ほどまえ、オリエント文明の誕生がそのときだ。そしてそのときから、人間は、経験を文字にうつしかえて保存することをおぼえた。古代文明ののこしたさまざまの象形文字などは、いわば経験保存の欲求-というよりは、むしろ執念とでも呼ぶべきもね-のかたまりとして考えることができる。
しかし、その欲求ないし執念を貫徹することのできたのは、どこの社会でも、ながいあいだにわたって、ほんのひとにぎりの人間だけであった。すなわち、王様、皇帝、貴族、僧侶などの特権階級だ。かれらは文字を独占し、毎日のできごとを粘土板や石板や羊皮紙や木簡、竹簡などに書きとどめた。こんにちのわれわれは、これらの人びとによって記録された文字をつうじて、数千年まえの生活を知ることができるのだが、そこにあらわれてくるのは、文字を独占した人びとの記録であるにすぎないのである。
文字を独占した特権階級は、しかしながら、じぶんじしんについての記録をのこしたというよりは、むしろその社会の記録をのこしていたというべきであろう。
なぜなら、これらの記録は、主として政治の記録であったからである。王の記録は、そのまま国家の記録であって、かならずしも王個人の記録ではなかったのだ。



日本でも事情はおなじである。大和朝廷は諸国に史官を置いて各地の行政記録をのこすことを命じた。その日その日の国家的記録がそのときからとどめられることになる。それは、国家の日記なのであった。そしてそういう時代が、かなりながいあいだにわたってつづく。
ところが、藤原時代になると、だいぶ様子がかわってきた。国家の日記と並行して、まったく個人的な「私日記」が登場してきたねだ。その事情を林屋辰三郎氏
の文章から引用すると-
「そのような“私日記”のはじめは八世紀末、九世紀からで『宇多・醍醐天皇御記』や『貞信公記』(藤原忠平)、『九暦』(藤原師輔)などが先端を切り、爾後は江戸時代にいたるまでほとんど断絶なく、どこかでだれかが日記をかき、ともかく歴史をついで来ているという次第である。著名なものを挙げるならば、平安時代では『御堂関白記』(藤原道長)、『小右記』(藤原実資)、『中右記』(中御門宗忠)、『兵範記』(平信範)、鎌倉時代にかけて『玉葉』(九条兼実)がある』
日記が国家のレベルから個人のレベルに移ったというのは、きわめて重要なことである。なぜなら、そのときから、記録は社会史の世界から個人史にかかわるものとなり、個人の経験のこまかいヒダをえがく機能をもつようになったからだ。
「私日記」を読むことによって、われわれは数世紀をへだてた過去の人間の人生を生き生きと再構成することができる。
かつて、原勝郎教授は、三条西実隆の日記『実隆公記』によって『東山時代に於ける一縉紳[しんしん]の生活』という書物を刊行されたことがある。日記を深く読むことによって、三条西実隆の住居の模様だの、食生活だの、家計の収支だのをはっきりとつかむことができたのである。そして、日記にあらわれたそういう「生活」から逆に、同時代の社会をのぞいてみることも可能なのであった。個人の日記は、まさしくそれが「個人的」であるがゆえに、個別的、具体的な同時代の記録をのこす。国家の歴史ではすくいあげられることのないさまざまな社会的事実が、個人の歴史のなかにちりばめられているのだ。
西洋でも、古い日記は、そのような歴史的役割を果たした。十七世紀はじめにウィリアム・ダグディル卿によって書かれた日記は、同時代のイギリスを知るための重要な資料だし、また、ほぼおなじころ、ヴァージニア植民地に入植したバードの日記は、アメリカ植民史のあざやかなひとこまを用意してくれる。
世界のあらゆる社会に無数にちらばっている「私日記」をたどることで、われわれはこれまでの歴史のなかで生き、そして死んでいったさまざまの人生をたどることができるのである。