3/3「日記 - 加藤秀俊」中公文庫 暮しの思想 から

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3/3「日記 - 加藤秀俊」中公文庫 暮しの思想 から



日本の神は唯一絶対ではない。神はいたるところに多元的に存在する。存在の仕方それじしんが、普遍的ではなく個別的である。そして、さらに日本人の宗教感情は、神々をはるかかなたの別世界にあおぐのでなく、むしろ日常の世界にひきおろして現世化する方向を歩んできた。日本人は神々にたいして「永遠」を祈念するのではなく、むしろ、個別化された「瞬間」を祈念してきたのである。たとえばお稲荷さんに行って金もうけを祈り、成田山で交通安全を祈る、といったふうに、日本人は、宗教をきわめて現世的な「こちらがわ」の問題としてとらえる。「むこうがわ」の問題としては考えない。そこでは「永遠」にして「普遍」なるものへの信仰は成立せず、むしろ、「瞬間的」かつ「個別的」なものへの関心が高まるのだ。
西洋人にとってたとえば、ぽっかりっ朝顔が咲いたなどというのは、べつだん大事件ではない。きわめてあたりまえの、とるに足らぬ事象である。しかし日本人にとっては、それは大きな変化でありうる。朝顔が咲いた、というその変化が日本人にはおもしろい。おもしろい、と思った瞬間に記録への衝動が高まる。そこで日記帳をとり出し、「朝顔咲く」と書きとめる。
日本独特の詩の形式たる俳句なども、この点と関係し合っているのかもしれぬ。ふとある一瞬にわれわれの心を横切る変化の感覚、おもしろい、という感興 ー それを十七文字に凝縮して美的な記録にすることをわれわれは発明したのだ。そして、その俳句の発想は、たとえばこんにちの日本での写真の隆盛とも関係する、いたるところで、日本人はいろんなものをおもしろいと思う。おもしろい、と思ったとき、シャッターを押す。それはまさしく、個別的瞬間に意味をあたえる作業なのであった。
そしてこれらのことが、日本と西洋における日記のスタイルの差をもつくり出した。日本の日記は、俳句・写真をもふくめて、きわめて自由奔放、かつ現世的である。悲しいときには悲しいと書き、うれしいときにはうれしい、と書く。それは、じぶんじしんという個別的存在にむけての自由な会話なのだ。
しかし、西洋の日記は、まず「告白」ないし「ザンゲ」というかたちをとった。会話の相手は唯一絶対の神なのである。神さまにむけて内心をさらけ出し、許しを乞う姿勢 - 西洋の日記にはそういう特徴がある。
日記は人生の記録とはいうものの、西洋では、それは、神のまえにおける人生であって、日本人の考える意味での、のんきな個別的人生なのではない。



日本の近代文学のなかでの、「私小説」というのも、たぶん、日本的日記のひとつの変形である。そこでは作家じしんのこまごまとした経験がそのまま小説というかたちをかりてえがき出される。その経験内容が世俗的であればあるほど、そしてその描写が真実であればあるほど、「私小説」の価値は一般に高いものとされてきたようにわたしには思える。西洋人は、神のまえに自己を「ザンゲ」した。それにたいして、日本人は私小説というかたちを発明し、同時代の世俗人のまえに自己をさらけ出すことをこころみた。おなじ人生の記録でありながら、そこには日記に対する根本的な態度のちがいをみないわけにはゆかない。
そう考えてくると、われわれがふつうに考える意味での「日記」は、あくまで日本文化の産物であるのではないかと思われる。日本人にとっての日記の意味は西洋文化のそれとだいぶちがう性質のものなのだ。
こんにちのわれわれは、記録の道具にこと欠かない。ペンで書く日記帳はもとよりのこと、写真機があり、八ミリがあり、そしてテープ・レコーダーがある。多くの家庭で、これら記録の道具は「自由日記」ふうに活用され、いわば、家族の歴史を書きつづけているはずだ。われわれはアルバムをつくり、テープに子どもの成長を記録し、「変化」を日常生活のなかに発見しつづけるのである。
日本の家庭ではいつでも、その家庭の過去のひとこまを自由に再生することができる。人間の経験とその記憶なんて、かなりたよりないものだ。いろんなことを忘れてしまう。しかし、写真があり日記があることで、人間は任意の過去を現在によびさますことができる。「古い日記のページには......」という流行歌があったが、日本人は、それぞれに「古い日記」をもっているのだ。
もちろん、過去はかならずもよろこばしい思い出をともなうとはかぎらない。眼をつぶって忘れ去ってしまいたいような過去の瞬間のいくつかを、たいていの人間はもっている。しかし、それをふくめて、「古い日記」をもっているというのは、たぶん、それぞれの人生にとって幸福なことなのだろう。過去の自己は現在の自己にとっていわば他人のごときものであり、現在の自己は将来の自己からみれば、また他人にちかい存在になるにちがいない。私小説の作家は、同時代の読者大衆にむかって自己をあからさまにしたが。われわれはそれぞれの日記によって、過去の自己にとって書かれた文字を読む読者なのであり、また、未来の自己によって読まれるであろう現在の自己を書き続ける作家なのである。そしておそらく日本人は、その経験をたのしむことのできる、数少ない民族のひとつであるようにわたしには思えるのだ。