3/3「〈こころ〉とは何か - 中島義道」ちくま文庫 哲学者とは何か から

3/3「〈こころ〉とは何か - 中島義道ちくま文庫 哲学者とは何か から

言葉遣いの問題ではない

こうした問題を「疑似問題」(つまり本当は何の問題もない)と言って片づける人がいますが、人間としてのまともなセンスを疑いたくなります。単純な科学者は次のように言うかもしれない。科学は因果関係を条件関係に限定したから成功したのだ。そのうえに「なぜ」と問うのは哲学者の仕事であり、そんなことは科学者の仕事ではない、と。
いいでしょう。私の疑問は - 『人体の世界』展の解説を書いた人のように - それでもあなたは人間でしょう?科学者としてではなく、人間としてやはり不思議ではありませんか?というものです。私は、科学者はこの「なぜ」を答えられないから駄目だと言いたいわけではなく、哲学者と一緒にいつもこの「なぜ」を研究すべきだと言いたいわけでもありません。そうではなく、いつもこの「なぜ」にひっかかっていてもらいたい。それをあっさりと片づけないでもらいたい。不思議だというまともな感覚をもってもらいたい、ということに尽きます。
もちろん、科学者だけに矛先を向けているのではありません。哲学同業者のうちにも、誠実さを疑いたくなるような「理論」を打ちたてている人がいます。つまり、〈こころ〉の問題をなるべく簡単に片づけようとする卑しい〈こころ〉をもった哲学者は多い。ある人は、それは単なる言葉遣いの問題だと言います。
〈こころ〉などというハシタナイ言葉によって、われわれは騙されているのであって、本当はそれに当たるものなど何にもないのだ。それは、ちょうど千代田区中央区......と次々に二三区を挙げていった末に、では「東京」はどこにあるんですか、と問う人のように馬鹿げているというわけです。赤い色を見ているときの大脳視覚中枢の状態と知覚としての赤との対立は、「H2O」と「水」のように、厳密な科学用語とぼんやりした日常言語との対立にすぎず、実在自体の対立ではないと言うのです。じつはひとつの実在を語る二つの語り方の対立にすぎないのに、それを二つの実在のあり方の対立と誤解していることが、「心身問題」のすべてだというのです。
こういう人は、相当無理してますね。「心身問題」を解消したいという願望に引きずられて、自分の実感を無理にねじ曲げて何か言っているのです。ここには、次のような前提があります。古来の哲学の問題がいつまでたっても解けないのは、たぶん、その「問いのたて方」が間違っているからだ。そして、この前提はさらに次の前提に支えられている。あらゆる哲学の問いは「解けるはずだ」と。
なんという傲慢な態度でしょうか。カントが言うように「課せられてはいるが答えられない」問いこそ最も深刻な問いであるのに!とにかく、〈こころ〉に言葉が密接にかかわっといることはわかりますが、それを単なる言葉遣いの問題にもってゆくことはできない。といいますか、そんな言い方をしますと、すべてが言葉遣いの問題なのです。「親友に裏切られた」のも「わが子が惨殺された」のも言葉遣いにすぎない。「死」も言葉遣い、「愛」も言葉遣い、「神」も言葉遣いです。

 

疑いつつ認め、認めつつ疑う

〈こころ〉にこだわる理由は、それが単に物質とは異なるあり方だからという理由だけではありません。むしろ、古来〈こころ〉を実体(substance)と認めることは、肉体の消滅後もなお存続するという期待が込められていたからです。ですから、私の脳と〈こころ〉との関係はじつは胃潰瘍やリンゴが見えるレベルなら、どうでもいいのです。私の〈こころ〉と呼ばれているものは私によって切実なものですが、それにもかかわらず私が死んでしまったらすっかり「消えてしまう」らしい。それは大層不思議なことだなあという気持ちがあるのです。つまり、私が永久に死なないのでしたら、物の言葉と心の言葉という二重の言葉がある、ピリオド。それでいいのです。
昔はむしろ、哲学者はこうした来世への期待の面から事柄をねじ曲げておとぎ話のようなことを議論していた感が強い。たとえば、モーゼス・メンデルスゾーンという哲学者による、こんな「魂の不滅」の証明があります。魂は分解できないから「一」である。ところで、時間は連続体であり次の瞬間はないのであるから、あるときに「一」である魂が存在していれば、それが「一」から一挙に「〇」になる瞬間はない。よって、魂は不滅である。
こういうのを「形而上学」と言うのでしょうね。これを聞いても、どうもありがたい気持ちにならない。死んでも安心だという気にはならないのです。カントはこの証明に反論しました。それがまたおそろしく抽象的・観念的です。魂はたしかに「一」だが、「一」であっても薄れてゆくことはある、したがって消え去るかもしれない、と彼は言ったのです。本当にイライラするほどどうでもよい議論です。
しかし、今世紀に入ってこうした(えせ)形而上学を打破しようという意気込みがあまりに強かったものですから、逆に先ほどのように、解けない哲学の問いはみんな問いが悪いのだと、まるで劣等生が居直ったような態度をとる哲学者が増えてきました。
自分の生きる現場に沿って素直に考えてゆけばよいのです。百歩譲って〈こころ〉とは錯覚かもしれない。しかし、なぜこの錯覚はこうも自然に見え、人類のさまざまな共同体に浸透しているのか、という問いを遮断することはできません(〈こころ〉をまったく認めないような、純粋唯物論的共同体はこれまで地上に存在しなかった)。絶対者でないかぎり-いや絶対者であっても-日本語から〈こころ〉に関するすべての言葉を排除し、その使用を禁じることはできないように思います。水のかわりにH2Oを強制することすらできない。「水」には H2O以外の膨大な意味があるからです。「ああすべてが H2Oの泡だ 」とか「そんな。 H2O臭いなあ! 」と言ったら、化学実験をしているようで、真に言いたいことが伝わりません。つまり、実はわれわれは「水」に対していろいろな態度をとり、それを「 H2O 」以上のものと見なしている。化学実験をしているとき、あるいはそれに準じた態度である事象を観察しているときだけ「水= H2O 」となるのであって、そのほかの膨大な場合この記号は成立しません。
まして、〈こころ〉はわれわれにとって「水」よりはるかに切実な言葉です。われわれは〈こころ〉という言葉によって、大脳の物資状態を表す言葉では置き換えられない何ごとか、しかも親密な何ものかを理解している。しかも、それは「どのようなものか」、考えれば考えるほどわからなくなるのです。

まとめてみましょう。一方で〈こころ〉をあまりにも簡単に承認して市民権を与えてしまうのも、他方で無理に排除してしまうのも誠実ではない。欺瞞的です。〈こころ〉とはたしかにウサンクサイ正体不明な存在なのですが、やはり認めざるをえない独特の存在なのです。こうして、〈こころ〉を疑いつつ認め、認めつつ疑うという誠実さこそ、“こころの科学”にたずさわる人々に期待される態度なのではないでしょうか。