(巻二十六)丸呑みのゴミ収集車萩の垣(出口民子)

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(巻二十六)丸呑みのゴミ収集車萩の垣(出口民子)

7月2日木曜日

図書館に角川俳句5月号が戻っていたので貸していただいた。

赤貧の身にふりかかる桜かな(脇坂規良)

を書き留めた。何だか毒のある句が減ってきたように感じる。

細君が外出し、

備蓄飯食べて買い足す震災忌

で今日も保存期間が切れる備蓄飯と即席麺で昼飯と致した。

現世[うつしよ]に強き妻いて懐手

であります。お陰様で日々「生まれてくるんじゃなかった。余計なことしゃがって。」とか「あ~、あ、早く消えて終いたい」なんぞとぶつぶつ云いながらグダグダしていられる。

しかし、どう見てもこの先ろくなことはない。今のお気楽な状態で「これでおしまい」になってくれないだろうかというのは-怖いけれど-結構本音だ。

本日三千百歩、階段二回でした。

願い事-コロッと叶えてください。

読書:

《 「尊厳死」や「安楽死」や「ターミナルケア」あるいは「脳死は人の死か」という問題など、生命倫理学は「死」を中核的なテーマにしていると言っていいが、(不思議なことに)「〈死ぬ〉とはいかなることか」という最も基本的なテーマには介入しない。現代日本では、アウシュヴィッツや広島について、九・一一や年間三万人に及ぶ自殺について、幼児誘拐殺人事件や親殺しについて、ジャーナリズムは太鼓を叩いて騒ぎたてているが、「〈死ぬ〉とはいかなることか」が正面から取り上げられることはない。この根本的問いを避け続けながら、目に触れる限りの場所で、人々は大量の死、残酷な死、不可解な死......の議論に終始している。これは見方によっては奇異なことであり、別の見方によっては自然なことである。では、「〈死ぬ〉とはいかなることか」はどこで議論されるべきなのか。死んだらどうなるかわからないのに、なぜわれわれは「死ぬこと」を恐れるのか、いや、もっと根本的な問いがある。なぜ、「生きていること」のほうが「死ぬこと」より「よい」のか。こうした問いに正面から取り組むのは、(倫理学を含む)哲学をおいて他にはないと思う。》

中島義道氏の文章を読んでいてフムフムと書き留めた。