1/3「〈こころ〉とは何か - 中島義道」ちくま文庫 哲学者とは何か から

1/3「〈こころ〉とは何か - 中島義道ちくま文庫 哲学者とは何か から

〈こころ〉の不可思議さ


『こころの科学』という雑誌に今書いているわけですが、どうも私の印象では、精神医学や心理学の先生がたは〈こころ〉という言葉をつかうとき、その途方もない不可思議さにクヨクヨ悩まないようです。フロイトユングの「自我構造」を何のためらいもなく図解したり、ある精神障害が「心因性」によるものと断定することに、なんら罪の意識をもたないらしい。
先日、女友達と上野の国立科学博物館で催されていた『人体の世界』展に行きましたが、次から次に人体のスライスや漱石の白っぽい脳、はたまた巨大なペニス付きの本物の全身解剖体などか眼前に現れて結構楽しかった。人体の中身はたしかにグロテスクですが、街で目にする肉屋の店先とあまり変わりはないなあ、と思った次第です。
だが脳の解説図のところで、私は一瞬言いようのない不快感といらだちに襲われました。そこには「......こうして脳は命令します。......こうして脳は感じます。......こうして脳は判断します。....」という説明が、ごくあたりまえのように書かれていたのです。せめて「不思議なことですねえ」とか付け加えているのならまだしも、そんな付言はサラサラなく、「なんでこの肉と血の塊が感じたり、判断したりするのだろう?」という自然な疑問を押しつぶす企画者の「良識」を疑いたくなりました。
同じことが、『こころの科学』の多くの執筆者にも言えるように思います。〈こころ〉という言葉を使う場合には、〈こころ〉なんて本当のところ、ほとんどまったくわかっていないのだ、わかったつもりになっているだげの霞のような概念なのだ、という留保をもっとつけてほしいのです。哲学が数千年のあいだ取り組んできた問いも煎じ詰めれば、〈こころ〉の不思議さに至り、現代哲学の最先端でも〈こころ〉をめぐって大苦闘が続いているのですから。
ここで、諸学説を紹介するつもりはありませんが、〈こころ〉をめぐる難問はすべていわゆる「心身問題」 - 現代風にアレンジしてみれば、脳と〈こころ〉との関係はどうなっているのかという問い - に行き着きます。〈こころ〉の機能を脳の一定の場所に対応させる試みが目下急速に進んでいるようですが、いかに精密な対応図が描けたとしても、この問題は解消しません。なぜなら、脳とは疑いもなくそのすべてが物質から成っているのですから、物質が「考える」とか「感じる」とか「判断する」わけではないからです。それは、物質とはまったく別のあり方をしているように思われます。それに〈こころ〉という名前をつけることはできますが、それがそれ自体どんなあり方をしているのか、また物質といかなる関係にあるのかは皆目わかりません。

〈こころ〉とはなんとなく、物質(たとえば脳)のあるところにあるような気がします。その意味で物質に依存している、いやもっと言えば物質に住み着いているような気がしますが、そうであればこそ、それは「どのような仕方で」物質に住み着いているのか、まったくわからない。〈こころ〉は物質に付着しているようでもなく、物質と物質とのあいだにあるようでもない。そもそも、脳を開けても〈こころ〉は観察できないのです。
いや、観察できないものはいくらでもある、と言われるかもしれません。コンピュータの中を開けても、たしかに「思考」や「想起」は観察できません。しかし、コンピュータが〈こころ〉をもっていると言えるためには、数々のハードルを越えねばなりません。議論を簡単にするために人間の〈こころ〉に限定して〈こころ〉という言葉を使いますと、現在のコンピュータの「思考」は〈こころ〉の機能とはほど遠い。
だいたい、思考・計算・想起・企画などのような知的はたらきは〈こころ〉の条件としては基本的なものではありません。むしろ、〈こころ〉であるための絶対条件は、感情や気分のようなものがそこに認められることです。もう思考することに「あきてしまった」、あるいは今計算する「気にならない」、あるいは想起するのが「つらい」、あるいは企画することに「反発を覚える」ようなコンピュータ、すなわちこちらの指示に感情的な仕方で従わないコンピュータ、その反抗や不服従の仕方に「個性」が感じられるようなコンピュータが、まず〈こころ〉あるものとして浮上してきます。
そして、あるものが気分や感情のようなものをもっているとは、それが相手によって態度を変えることを含意します。ですから、好きな人には即座に懇切丁寧に答え、どうでもいい人にはそっけなく、嫌いな人にはわざと違った回答を与えるというように、操作する各人に対して微妙に態度を変えるコンピュータがあれば、それは、ほとんど〈こころ〉をもっていると言えるでしょう。