(巻三十五)秋晴や心にかかる雲ひとつ(モーレンカンプふゆこ)

(巻三十五)秋晴や心にかかる雲ひとつ(モーレンカンプふゆこ)

12月24日土曜日

本日も冬晴で、風は弱くなった。毛布を干し、洗濯物も干した。

朝家事は洗濯と毛布干し。今日はクリスマス・ディナーを作るとかで動員がかかり、コールスロー・サラダを作るためのニンジンとキャベツの千切りと鮭のチャウダーを作るためのジャガイモの賽の目切りを仰せつかった。それはそれでいいのだが、横で壊れたラジオの如く喋りっぱなしには閉口した。黙らせたら、ムクレた‼うるさいよりはムクレていてくれた方がありがたい。

顔本の俳句クラブに入門し、投稿も許され

鍋焼きやここも銀座といふ場末

が掲載された。

昼飯食って、一息入れて、2時半近くなって散歩に出かけた。ちょうど床屋の午後の部が始まる時間なので前を通ったら一人待ちだったので入った。チョンチョンと摘まんで15分で終わり。まだ千円で遣ってくれた。

床屋から図書館へ回り角川俳句12月号ほかを借りた。

クロちゃんもコンちゃんも健在。コンちゃんが今日は食欲を示し媚びてきた。

帰宅して角川俳句を捲り、

海暮るる窓辺に枯るる蟷螂は(堀本裕樹)

略歴に省く十年冬の雁(高勢祥子)

頼まれもせぬ草を引く余生かな(高原喜久子)

さてどこで下車するか鰯雲(酒井○子)

を書き留めた。

向い合わせでクリスマス・ディナーをいただく。その後鍋釜を洗う。

願い事-涅槃寂滅です。

顔本に、

We need much less than we think we need. - NAYA ANGELOU

との警句が出ていて、書き留めた。

断捨離のことだろうが、必要・不必要の話となると私自身が不必要な存在だ。

眠るしか用なき山となりにけり(久野茂樹)

生きている必要性、いや、そもそも生まれてくる必要性もなかっただろう。

「必要」に関する随筆では以下を思い出す。

「「地図を持て-『リア王』 - 松岡和子」ちくま文庫 「もの」で読む入門シェイクスピア から

東京・新宿駅の地下コンコース。かつて青島都知事の権限によって強制退去させられたあとも、いつの間にか再び段ボールがずらりと並び、ホームレスのおじさんたちの団地と化した時期がある。当時、彼らの住まいは、それなりに思い思いの工夫がしてあり、ささやかながらインテリアを飾ったものまであって、通りがかりについ眺めては感心したものだ。たとえば、ゲームセンターのUFOキャッチャーで取ってきたらしい縫いぐるみの人形が、表札よろしく掛かっていたり。そんな様子を目にして、「シェイクスピアの言っていることはホントだなあ」と感じ入った。

老齢に達した古代ブリテンの王リアは、王位と王国を長女ゴリネルと次女リーガンに譲り渡すことになり、悠々自適の余生を送るつもりだったのだが、彼女たちの手ひどい裏切りに遭う。

まず、ゴリネル。ひと月ごとに二人の娘のそれぞれの城に身を寄せるはずが、二週間とたたないうちに、彼女は父親を粗略に扱い、リアに仕える百人の騎士も五十人に減らしてしまう。怒り心頭のに発したリアは、グロスター伯爵の城に逗留しているリーガン夫妻のもとへと馬を走らせる。

ところが、リアの期待に反してリーガンは、旅の疲れを口実に父に会おうともしない。ようやく夫とともに姿を現した彼女は、姉を非難するどころか、騎士の数もさらに半分でいいと言い放つ。そして、止めの一撃とも言うべき一言 - 「一人だって必要かしら」。

リアは叫ぶ - 「必要を言うな。どんなに卑しい乞食でも貧しさのどん底に何か余分なものを持っている」。

私がホームレスの段ボール・ハウスを見て「ホントだなあ」と思った「シェイクスピアの言っていること」とは、第二幕第四場のリアのこの台詞なのである。

もちろん、ホームレスのおじさんたちは物乞いをしているわけではないのだから、この台詞が丸ごと当てはまると言っては失礼だろう。だが、お世辞にも物質的に豊かとは言えない彼らが「何か余分なもの」を持っていることは、かつての新宿の地下団地が証明している。

リアもまたホームレスになってしまうのだが、そうなる前の彼は「持てる者」だった。なにしろ国を丸ごとひとつ持っていたのだ。これを凌ぐ「持てる者」があるだろうか。しかもリアは、明らかにブリテン王国をおのれの私物とみなしている。

リア王』というと、おそらく誰もが冒頭の国譲りの場を思い浮かべるのではないだろうか。三人の娘たちへの問いかけ - 「お前たちのうち、誰が一番父を愛していると言えるかな?」。言葉によって愛情を、言わば計量化しようとする愚を、リアはおかす。

ゴリネルとリーガンは美辞麗句を弄して孝行娘ぶりをアピールするが、末娘のコーディリアは巧言令色を是[よし]とせず、子としての義務を果たすだけだと言葉少なに言う。リアはコーディリアの真意が読めず、勘当する。

> 愛情の計量化と言ったが、その見返りもまた広い意味で「測れるもの」、国土である。

この悲劇における主人公リアのほぼ開口一番の台詞(もう少し厳密に言うと、彼の全台詞の第三行目)は「地図を持て」である。

ゴリネルの返事のあと、彼は「この線からこの線に至る地域はすべて(中略)お前のもの」と言い、リーガンの答えのあとでは「我が王国のこの肥沃な三分の一」を与えると言う。「この(This)」という指事語があるので、シェイクスピアはリア自らが地図を示しながら言うことを前提にして(というより、そこまで演出して)これらの台詞を書いたのだろう。まるでケーキでも切り分けるような具合。一国の私物化もいいところだ。

シェイクスピアがこの戯曲を書くに当たり下敷きにしたとされる材源[ソース]のひとつは、作者不詳の劇『レア王とその三人の娘の実録年代記』である。三人の娘たちの名前はゴノリル、レイガン、そしてコーデラ。『リア王』とは違って三人とも未婚であり、国譲りと婿選びが同時に行われる。グロスター伯爵父子を巡る副筋、道化、リアの狂気、なども材源のほうにはない。最も大きな違いは、『レア王』がハッピーエンドであることだ。

それはさておき、シェイクスピアはこれ以外にもジェフリー・オブ・マンモスの『ヒストリア・アングリカーナ』、ホリンシェッドの『英国史』、ジョン・ヒギンズの『王侯の鑑』などにあるリア(レア)と三人の娘の物語を参考にしたとみなされている(副筋のほうの種本はフィリップ・シドニーの『アルカディア』)。これらすべてに国譲りの場があるのだが、面白いことにどのひとつにも地図は出てこない。この古い物語に地図を持ちこむのはシェイクスピアの発案ということになる。彼の劇団ではどのくらいの大きさでどんな材質の地図を小道具として使ったのだろう。時代背景を考えて革にしたのだろうか。十六世紀末にはエングレーヴィングによる英国全土の地図がすでに出版されていたそうだけれど。

最近の舞台ではこの地図の表現もヴァラエティに富んでいる。一九八九年の春、東京のグローブ座で上演されたルネサンス・シアター・カンパニーの舞台(ケネス・ブルナー演出、およびエドガー役。エマ・トンプソンが道化を演じた)では、一見土のように見える材質が床を覆い、そこに地図が描かれていたと記憶している。傑作だったのは、一九九〇年九月に来日したロイヤル・ナショナル・シアターのそれ。演出のデボラ・ウォーナーは、ブライアン・コックスが演じる稚気あふれる老王に、大判の紙の地図をはさみでジョキジョキ切らせた。ケーキを切り分けるより無造作で、いかにも気紛れな国土分割。

さすがはシェイクスピア、国家という大きなものから主人公の性格までを効果満点に表わすいい小道具を考えたものだ。