「東京やなぎ句会 四十年の愉しみ - 入船亭扇橋」句宴四十年 岩波書店

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「東京やなぎ句会 四十年の愉しみ - 入船亭扇橋」句宴四十年 岩波書店

東京やなぎ句会が始まったのは、昭和四十四年一月五日、新宿にあった銀八という鮨屋の三階の小部屋でした。その時は、永六輔小沢昭一江國滋桂米朝大西信行柳家小三治矢野誠一・三田純市・永井啓夫と私の十名でしたが、のちに神吉拓郎加藤武が加わりメンバーは十二名となりました。
このときは、私はまだ二ツ目で、柳家さん八といいました。柳家からとって東京やなぎ句会という名前になり、各々の俳号も決めました。

会則も決めまして、欠席の場合は必ず代理を出席させること、代理は未婚の女性に限る、句友の女に手を出した者は即刻除名、という厳しい掟。
幸いなことに、除名になった者はいまだ一人もおりません。それだけ真面目なのか、または女性にもてる器量がないのか - なにはともあれ、四十年間無事なのは、良いこと。男だけのグループもある意味、幸せなものです。

私が真打に昇進して九代目入船亭扇橋になりましたのは、句会が始まった翌年、昭和四十五年三月十三日のことです。先代の扇橋も俳句を嗜[たしな]んだそうで、ちょうどいいというので、この名前になりました。今でも噺のマクラなんかでよく使われる、
梅が香や根岸の里の侘び居
は、八代目扇橋作なんです。上の句が何でも合うので万能俳句と言われますが、元は先代の作だったんです。これは、矢野誠一さんが調べてくれました。

東京やなぎ句会では、みんなが私のことを宗匠と呼びますが、これは尊敬して言っているわけじゃなくて、昭和二十四年から、私が水原秋櫻子先生の「馬★酔木」に投句していただけのことです。
「句会をやるのにどうしていいかわからない。さん八が馬★酔木をしているそうだね。宗匠にしてやるから、俳句を教えろよ」というわけなのですが、メンバーがメンバーですから、脅かされて怖いですよ。売れてる人に取り囲まれては、ぐうとも言えません。
この頃は、俳句のことを全く知らない初心者ばかりなので、手順はどうするんだ、歳時記はいるのか、といった、俳句のいろはを聞かれました。
「歳時記は持っていたほうがいいですよ。俳句は川柳と違って季語が入りますから、自然の移り変わりが大事です......」など、最初はいろいろ手ほどきをしました。

 

毎月の句会では、前月の優勝者のほかに、宗匠も題を出す決まりです。だから、私は“宗匠”というより“題出し”と呼ばれているんです。
題を出すのはとても難しい。私は植物が好きなのに、みんなは嫌がるんです。私は田舎で育ちましたから、花や草や木が身近にあり、そういうものを詠むのが小さい頃から好きでした。植物の題はとてもいいと思うんですが......。
いつも「それ、前に出たよ」って、駄目出しされちゃう。ほんとうは、題は何度同じのが出てもいいんです。でも駄目だって言われるので、別の題を歳時記で探します。
私の使っている歳時記は、高浜虚子が編んだもので、昭和二十四年に買いました。月ごとに季語が載っている「季寄せ」で、小さくて持ち運び易いのでずっと使っています。当時百二十円しましたが、これは結構高かったと思います。
歳時記を見ていると、季語が旧暦で考えられていることが分かります。明治時代の尋常小学校読本に「二月三月花盛り、鶯鳴いた春の日に......」という唄がありますが、旧暦では二月三月は花盛りなんですね。今の四季とはズレているんです。

俳句は短歌より短いし、さらに季語が入りますから、言いたいことを全て言うと収まらないので、カットしなくてはなりません。言いたいことが山ほどあっても、こらえて、こらえて詠む。いわば、我慢の文学。これが俳句の魅力だと申せます。
そぎ落としていくと、詠み手の人間がそのまま出ますから、俳句を見れば、誰が詠んだのか分かることもよくあります。
私は、富安風生先生の「若葉」に投稿したこともあり、そのご縁で東京やなぎ句会に、一度お越しいただきました。その頃先生は、九十歳を越えられていたでしょうか。みごと優勝され、賞品をいっぱい抱えてお帰りになりました。俳壇の大先生のご来臨は、私どもにすれば身に余る光栄で、嬉しい思い出となっています。
富安先生は、とても綺麗な、澄んだ眼をされていた。あらゆるものを澄んだ優しい眼でご覧になり、俳句に詠まれているんだろうな、と思いました。
俳句に本音を詠まれると、迫力が違いますね。そういう句は、やっぱりいいなあと思います。
私は、他にも「季楽句会[きらくくかい]」という会でも宗匠を務めていて、毎月出席しています。ここでは私は句作しないで、出席者の俳句を選ぶだけです。天・地・人を選び、短冊に書いて落款を押し、作者に差し上げるんです。
こういった句会では、みんなスーツを着て居住まいを正していることが多いものですが、やなぎ句会だけは違います。みんな遠慮がないから、普段のままで、とにかく大声でよく喋るんです。それも、俳句とは関係ない世間話に花が咲きます。まさに「宴」です。
洒落も毒舌も飛び交いますが、でもこれが楽しみです。みんな様ざま
な世界で仕事をしているので、自分が知らない情報をたくさん聞けるのは有難いことです。

最初は、毎月の句会の日にちを決めていませんでしたが、当時は働き盛りで、売れっ子が多くいましたから、それではスケジュールを合わせるのが難しくなりました。そこで、五・七・五の十七文字を掛けて、毎月十七日を句会の日に決めるようにしたんです。
それからは、どんなことがあっても句会が最優先になりました。いい仕事が来ても、十七日は休みます。時には、断るのが惜しい仕事もあったんですが、それでも句会のためには諦めました。誰も口では言いませんが、いろいろあっても、みんな句会を優先しているに違いありません。これこそ、東京やなぎ句会が四十年続いた秘訣なのだと、しみじみ思います。