「長谷川平蔵のこと - 逢坂剛」03年版ベスト・エッセイ集 から

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長谷川平蔵のこと - 逢坂剛」03年版ベスト・エッセイ集 から

池波正太郎さんの、〈鬼平犯科帳シリーズ〉に出てくる長谷川平蔵が実在の人物だったことは、今ではよく知られている。
ただし、そのキャラクターは池波さんが頭の中で想像した、虚構のものであるはずだ。
どこかで書くか話すかされていたことだが、池波さんが火盗改の長谷川平蔵なる人物の存在を知ったのは、小説に手を染め始めた一九五〇年代の半ばごろだった、という。
にもかかわらず、池波さんが実際に〈鬼平シリーズ〉を書き出すまでに、十数年のブランクがあった。その間、池波さんはずっと〈鬼平〉の構想を、温めておられたらしい。おそらく、平蔵という人物が自分の中で十分熟成され、一個の完成された人格として立ち上がってくるまで、辛抱強く育てられたに違いない。
池波さんが平蔵に興味を持ち始めたきっかけは、三田村鳶魚の捕物に関する諸著作、あるいは松平太郎の『江戸時代制度の研究』に記載された、火盗改に関する記述あたりではないか、と思われる。
それまで、捕物帳といえば南か北の町奉行所があたりまえだったのを、火盗改という隠れた組織に光を当てたのだから、その着想だけでも新彗星発見に等しい価値がある。しかも、その中でとくに長谷川平蔵に目をつけられたのは、さすがとしか言いようがない。
平蔵については、というより鬼平については、という方が正しいかもしれないが、とにかくたくさんの人が、いろいろなことを書いている。シャーロキアンにも比すべき、鬼平研究家も珍しくない。
したがって、これから書くこともそうしたファンは先刻ご承知かもしれないが、わたしはわたしなりに同じ作家として、実像としての長谷川平蔵と虚像としての鬼平の間に、どのような因縁があるのかをたどってみたいと思う。
まず平蔵については、法学博士瀧川政次郎による『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(一九七五年・朝日新聞社刊)という、やや学術的な著作がある。博士は、それより前の一九六一年に刊行された『日本行刑史』(青蛙房)でも、平蔵のことをかなり詳しく書かれた。平蔵の経歴、業績を知る上で、欠かせない資料といえよう。
しかし、平蔵の人柄や当時の世評に関する情報を得るためには、どうしても水野為長の『よしの冊子』をひもとかなければならない。
水野為長は、寛政の改革で知られる松平定信の側近で、城中や御府内の噂話を丹念に書き留め、それを定期的に定信に提出した。その膨大な記録が『よしの冊子』で、当時の政情や幕閣人事の動きを知るのに、もっとも興味深い資料といってよい。これは、おそらく耳目となるべき隠密のたぐいを使わなければ、とうてい集められないような量と質を、誇っている。

その中に、平蔵の評価や人気に関する噂話が、数十か所も出てくる。そこに書かれた、論調の変化と推移をたどるだけでも、平蔵の人となりが彷彿と浮かび上がってくる。
天明七年九月、平蔵が初めて当分加役(半年勤務の火盗改)に任じられたときは、こう書かれている。
長谷川平蔵がヤウナものをどふして加役に被仰付候やと疑候さた。姦物のよし〉
つまり、平蔵のような者をなぜ火盗改にしたのか、首を捻ってしまう。あれは姦物らしい、というのである。
翌八年四月、平蔵は一度加役を免じられるが。半年後の十月にふたたび御用をおおせつけられ、今度はなんと寛政七年五月に病死するまで、七年近くも勤めることになる。
その間に、平蔵の評価が少しずつ変わってくる。ときどき悪評も出るが、しだいに市中の人気を得ていくさまが、よく分かる。
寛政元年四月中旬の頃には、次のような記載がある。
〈長谷川先達中ハさして評判不宜候所、奇妙ニ町方にても受宜く西下(注、定信のこと)も平蔵ならバと申候様に相成候よし。町々にても平蔵様々々々と嬉しがり候由〉
同じく、四月下旬。
〈長谷川ますます評判よろしく相成り、松左金(注、同時期に何度か加役を勤めた、松平左金吾のこと)ハかげもかたちも無之よし〉
寛政二年正月の頃。
長谷川平蔵、町方ニて今迄ニ無之御加役だと悦び不怪[けしからず]御じひ深い御方じやと悦候由〉
寛政三年四月下旬の頃。
〈長谷川ハ何と申ても当時利ものの由。尤至て大術者ニ御座候へ共、夫を御取用ひ有となきハ宰相御賢慮ニ御ざ候事、殊ニ町方ニても一統相服し、本所辺ニてハ始終ハ本所の御町奉行ニなられそふナ、どふぞしたいと御慈悲ナ方じやと歓候由〉
寛政三年十二月、北町奉行の初鹿野河内守が病死して後任人事が噂されたとき、平蔵の名前も挙がっている。
町奉行にハ長谷川平蔵ニて、人足寄場只今迄之通持居候積り、被仰付候さた仕候由〉
しかし、すぐにこうなる。
町奉行長谷川平蔵と申さたハ相止、中川勘三郎根岸肥前守ならんと申沙汰のよし〉
結局北町奉行は、小田切土佐守に決まってしまう。

どうやら平蔵は、松平定信に好かれていなかったらしい。定信は自伝『宇下人言[うげのひとごと]』の中でも、あまり好意的には書いていない。
〈(人足寄場は)いづれ長谷川の功なりけるが、この人功利をむさぼるが故に、山師などいふ姦なる事もあるよしにて、人々あしくぞいふ〉
しかし、『よしの冊子』を丹念に読めば、平蔵が探索や捕物のわざにたけていたこと、下情に通じて市民の間に人気があり、盗っ人にも一目置かれていたことが、よく分かる。定信が、平蔵を町奉行に起用しないまでも、なぜもっと優遇しなかったのか、理解に苦しむものがある。
平蔵が捕らえた大盗の一人に、大松五郎という男がいる。押し込み強盗が頻発した、寛政三年四月のことである。この盗賊については、定信も前述の自伝で触れているほどだから、かなりの大物だったと思われる。
ところが、三田村鳶魚が随筆で書き残した怪盗葵小僧に関しては『よしの冊子』にも『宇下人言』にも、まったく記述がない。
鳶魚によれば、葵小僧は葵の御紋つきの高張提灯を押し立て、公儀と勘違いさせて悪事を働いたらしい。その葵小僧を平蔵が捕らえたのだが、あまり詳しく取り調べるとあちこちに不都合が出るので、早々に処刑してしまった。したがって、裁判記録も何も残っていない、というのである。
それだけ読むと、大松五郎よりよほど話題になっていい大物だと思うのだが、葵小僧に触れた資料はほかに見当たらない。記録が残っていない怪盗の消息を、鳶魚はいったいどこで知ったのだろうか。
聞くところによれば、どこかに『御加役代々記』と称する火盗改の記録があるらしく、あるいはその中に載っているのかもしれない。しかし、これは刊本になっていないので、まだ確かめるにいたらない。鳶魚が、一言でも出典を書いておいてくれさえすれば、これほど悩むこともないのだが......。
ちなみに、鳶魚の著述はほとんど出典を明らかにしないため、学界からは黙殺されることが多い。それでも、最近は東大史料編纂所山本博文氏のように、鳶魚の業績を評価する学者も現れた。さらに山本氏は、稗史の部類に属する『よしの冊子』のような史料にも注目し、積極的に著作に活用しておられる。
このように、きわめて断片的ではあるが、『よしの冊子』に散らばった点描を寄せ集めると、長谷川平蔵の人物像がおぼろげに浮かび上がる。そのイメージは、まさに池波さんが創造した魅力的な鬼平像と、そっくり重なるようにみえる。
ところで、この『よしの冊子』が刊本(随筆百花苑の第八巻、第九巻に収載・中央公論社刊)になったのは、一九八〇年から八一年にかけてのことで〈鬼平シリーズ〉が始まってから十年以上もたっている。池波さんがそれを読まれたとしても、鬼平を書き出したずっとあとのことになる。原本は、国立国会図書館に所蔵されているそうだが、刊本以前にそれを池波さんが閲覧された、という話は聞かない。
つまり、池波さんはそうした史料に目を通すことなしに、冷徹にして人間味あふれるあの鬼平像を、自分の中に作り上げたのだ。
それがみごとに、長谷川平蔵の実像と重なり合ったわけだが、わたしはそこに作家池波正太郎の本能的、動物的とでもいうべき、鋭い臭覚を感じるのである。