「スキャンダル - 嵐山光三郎」悪党芭蕉 新潮文庫 から

 

「スキャンダル - 嵐山光三郎」悪党芭蕉 新潮文庫 から

 

芭蕉は大山師だ」といったのは芥川龍之介である。「続芭蕉雑記」(『文芸的な、剰りに文芸的な』昭和六年刊)の「伝記」と題する項に、芥川はこう書いている。
芭蕉の伝記は細部に亘[わた]れば、未だに判然とはわからないらしい。が、僕は大体だけは下[しも]に尽きてゐると信じている。-彼は不義をして伊賀を出奔[しゆつぽん]し、江戸へ来て遊里なとべ出入[しゆつにふ]しながら、いつか近代的(当代の)大詩人になつた。なほ又念の為につけ加へれば、文覚[もんがく]さへ恐れさせた西行ほどの肉体的エネルギイのなかつたことは確かであり、やはりわが子を縁から蹴落した西行ほどの神経的エネルギイもなかつたことは確かであらう。芭蕉の伝記もあらゆる伝記のやうな彼の作品を除外すれば格別神秘的でも何でもない。いや、西鶴の「置土産」にある蕩児[たうじ]の一生と大差ないのである。 
そして、「彼は実に日本の生んだ三百年前[ぜん]の大山師だつた」と結んでいる。「不義をして伊賀を出奔・・・云々」というところは芥川の事実誤認であるけれど、この本意は、芭蕉に自己を投影した逆説的賛辞である。芥川は、芭蕉を俳聖としてあがめることによって生じる文芸の衰弱を批判した。
芥川以前に芭蕉を批判した人は正岡子規である。子規は明治二十六年(一八九三)十一月十三日から翌二十七年一月二十二日まで、新聞「日本」に『芭蕉雑談』を執筆し、芭蕉の句に関して、こう書いている。
余は劈頭[へきとう]に一断案を下さんとす曰く芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ上乗と称すべき者は其何十分の一たる少数に過ぎず、否僅かに可なる者を求むるも寥々★星の如しと。
芭蕉の句の過半を悪句駄句であるとする子規の論は感情的で未完成の域を出ないが、子規の主張は、芭蕉を神格化する宗匠への批判であった。芭蕉の句を鑑賞するよりも、芭蕉の廟や碑を建てることに熱中する宗匠を風刺したのである。

「行脚俳人芭蕉」では子規は、芭蕉をこう評している。
多情の人にして形而下の快楽無き者は殆ど生を保つ能[あた]はず。芭蕉は此必要を充たさんがために形而下の快楽を漫遊に求めたり。況[いは]んや自家の俳句稍[やや]形を成したる後、東海道を経て故郷に帰りし道すがら、始めて俳句の活用を試みたる時の嬉しさは如何[いか]なりけん。漫遊は俳句を得て活し俳句は漫遊に因[よ]つて進む。
明治二十六年は芭蕉没後二百年忌で子規は二十六歳だった。この年の三月に大学を退学した子規は、七月には「奥のほそ道」を旅して「はて知らずの記」を執筆した。旧派の俳壇が芭蕉をもちあげて、旅ゆくさきざきで碑が建てられていくのを見て、腹をたてた。そのことが「芭蕉翁の一驚」にある。
芭蕉翁ある日天気のよきままに地獄と極楽の中頃の処[ところ]よりブラリと立ち出で給ひ、今日はどこの肖像へ魂入れに行くべきやと抜け裏のほとりにてまごつき給ふ折から俳諧師を顔にぶらつかせデモ宗匠、俗気の上に被布をかぶせていそいそと来りければ暫[しばら]く彼の行く処へ行かんと後をつきて窺[うかが]ふ間もなく彼はとある家に這入りぬ。窃[ひそ]かに格子の外に立て聞き給へば内には数十の人々声々に 甲「元来我々は正風なれども何分にも芭翁の句の分らんには困る第一世人に古池の講釈を聞かれるには閉口するよ」 乙「イヤ俳諧の古池よりは川柳の居候の方が面白いのさ併[しか]し居候では飯が喰へぬ故巳むを得ず正風の看板を掛けて居るのだが、丙「古池よりも川柳よりも月花よりも可愛いのは団子と金よ、其金がほしさに此春より急に宗匠と拵へて二百年忌の廟を建築しやうと思うがどうだろう 丁「廟よりは石碑がよからう、石碑はやりの世の中だから 戊「石碑では儲けた処が知れたものだ廟でなくては 巳「イヤ廟を立てるとは山が過ぎるよ ★「イヤ廟だ 申忽[たちま]ち破裂し門をはねあけて内に入り一声高く「汝[なんじ]等集りて何をか語る我こそ松尾芭蕉なれと叱りつくれば皆々打ち喜び「誠に善くこそ御光来下された、先づさしあたり今年の儲けは廟が善いか石碑がよいか御当人様の御差図を願ひたうござりますと平気で述べたるに芭蕉翁も余りの事とアツケにとられて何の返事もなくそうそう立ち去り給ひぬ。
其翌日六道の辻の黄泉社より発行する冥土日報第十万億号を見るに二号活字の広告を掲げたり。
近頃拙者名義を以て廟又は石碑抔[など]建立する由言ひふらし諸国の俳人にねだり金銭を寄附せしむる者有之由[これあるよし]聞き及び候得共右は一切拙者に関係無之候得者左様御承知被下度[くだされたく]此段及広告候也
大日本明治二十六年月日
松尾桃青 白
芭蕉をけなすことは覚悟がいる。子規と芥川の論はブランド化する宗匠への反感がさきだっていて「若気の至り」の感はいなもない。しかし、子規と芥川には、「芭蕉は悪党である」という直感があった。それはなぜか。

 

芭蕉没後、蕪村が出るまで、俳諧は月並となり、混乱し、低迷を重ねた。
蕪村は其角の弟子であった早野巴人[はじん]に学んだ。巴人は其角に師事しながらも、江戸の洒落風になじまず、孤高の生涯をすごし、「俳諧に門なし。ただ俳諧門といふを以て門とす」と言った。ここにおいつ、蕉門は消滅したことになる。
去来抄』『旅寝論』(去来)『三冊子[さんぞうし]』(土芳)『俳諧問答』(許六、去来)や『芭蕉翁終焉記』『芭蕉翁行状記』といった伝記により、芭蕉仰慕の追善が行われ、そこで興行される句会には、芭蕉の画像や遺品が飾られ霊位としてまつられた。
碑がそこかしこに作られ、浄財をつのって芭蕉堂がたてられ、木像を安置するにいたって芭蕉は偶像化され、それはいまなおつづいている。『奥のほそ道』の芭蕉曾良の彫像はやたらと多い。百回忌の寛政五年(一七九三)四月には、ときの神祇伯[じんぎはく]白川家より「桃青霊神」の神号を授けられ、筑後高良山[こうらさん]に、風雅の守護神として神社にまつられた。その十三年後の文化三年(一八〇六)には「古池や・・・」の句にちなんで朝廷より「飛音明神」の号を賜った。百五十年忌の天保十四年(一八四三)には、二条家より「花の本大明神」の神号を下され、芭蕉は名実ともに神となった。
芭蕉は宗教と化したのである。
こうなると句の鑑賞どころではなくなり、芭蕉は、ただただ拝むだけの対象となり、いまなおつづく芭蕉信仰はこのころからはじまった。「古池や・・・」が「飛音明神」となれば古池もまた枯淡[こたん]の聖なる池である。
蛙か飛び込んだ池は、江戸大火で大量の死人が飛び込んだ池であって、ゴミも浮いていれば泥の匂いが強い、混沌の池である。芭蕉が神格化されることにより、芭蕉が意図してきたことが、まるで違ってきてしまった。
芭蕉三百回忌の平成五年(一九九三)には、「奥のほそ道」ルートに、観光客むけのテーマパークが乱造され、芭蕉は俳聖という名の商品と化した。菓子からうどんの類いにまで芭蕉の名がつけられている。
「悪党芭蕉」とタイトルをつけて、老人アイドルと化した芭蕉を、俗人と同じレベルで、と考えなおそうとしたのは、そのためである。芭蕉もひとり、私もひとり、読者もひとりの地点に立つところから考える。

 

芭蕉が没したのは元禄七年(一六九四)十月十二日。五十一歳であった。赤穂浪士が吉良邸へ討ち入りしたのが元禄十五年十二月だからその八年前のことになる。
元禄時代の幕府諸藩は財政難に直面していた。
新らしい商人が台頭してくる。
農村経済が変化して幕藩体制がゆらぎつつあった。江戸へ下った芭蕉が弟子杉風[さんぷう]の別荘へ入り、そこを芭蕉庵と名づけたのは延宝八年(一六八〇)で、綱吉が五代将軍になった年である。綱吉は幕府の制度儀礼の整備を行い、諸大名家の除封、減封は四十六件一六一万石に及ぶ。これは徳川政権下でも目立って多い。元禄は芭蕉西鶴近松を生んだ文芸盛栄期と呼ばれるけれども、諸大名や武士にあっては恐慌時代であった。幕藩体制がゆるみ、武士は精神的にたるんでいく。
赤穂浪士の討ち入り切腹事件の政治的効果は「武士の復権」であった。
忠臣蔵」かなければ、明治維新は百年早くきたと思われる。芭蕉俳諧は「無用者の復権」であった。『奥のほそ道』は、芭蕉が、富山の薬のように「新風」俳諧の薬を売り歩いた紀行から生まれた。
将軍綱吉は、評判の悪い「生類憐みの令」を発布し、腹をたてた庶民は犬公方と呼んで憎んだ。仙台藩伊達綱村が将軍綱吉に拝謁したときの心境をこう語っている。
先代将軍の家綱公に拝謁した時は、顔をあげて尊顔を拝することができた。ところが綱吉公に拝謁したときは、自然に顔を伏せてしまった。(『常憲院殿御実紀』)
それほど綱吉は怖れられている将軍であった。
都市の生活がよくなると、時季はずれの珍しい料理を競って食べることが流行となり、綱吉は「初物禁止令」を発布した。たけのこやまつたけやみかんの初売りを禁じ、鳥魚類についても、過分に高いものは商わないよう命じた。「初物禁止令」が発布された貞亨[じようきよう]三年(一六八六)は、芭蕉庵で二十番の句合「蛙合[かわずあわせ]」が催され、「古池や蛙飛こむ水の音」の句を発表した。これは芭蕉の戦略であろう。「生類憐みの令」をふまえて、それを側面から支えていこうという意図がみえる。時流にのる天才的直感がある。
ときに芭蕉は四十三歳であった。
「生類憐みの令」が発布されたのは、その一年前の貞亨二年である。句合の題を蛙としたのは、時流にそった選択といわねばならない。主として犬、猫を対象にした「憐みの令」は次第にエスカレートし、芭蕉が没する元禄七年には「江戸中の町々で、金魚銀魚を持っている者は、その数を正確に申し出るように」として、金魚銀魚の戸籍調べまでなされた

元禄七年五月十一日、芭蕉は江戸を旅立って故郷の伊賀上野へ向った。懐には能書家素竜[そりゆう]に清書させた『奥のほそ道』が入っている。伊賀上野で松尾家を守っている兄半左衛門へのみやげであった。芭蕉の胸中には、「いつの日か板本として世に問う」という漠然とした案はあった(遺言により芭蕉没後は去来へ譲られた)だろうが、なにはともあれ、兄半左衛門に読んで貰いたい、そして兄の意見を聞いてみたいと考えていた。
『奥のほそ道』は、芭蕉にとっては本来の仕事ではない。本業は俳諧師である。『奥のほそ道』は当時人気のあった「旅案内本」の体裁であって、余技である。そのために最後の句は、半左衛門の好物である「蛤」を題材とした。魚を食べるのは「生類憐みの令」にふれそうだが、蛤ならばぎりぎりセーフであろう。「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」は、紀行文上の「別れ」の形をとりつつも、そのじつ「兄半左衛門と芭蕉」の別離を暗示している。
蛤の句(秋)は、出発のときに詠んだ「行春や鳥啼魚の目ハ泪」(春)と対の句となっており、そういった工夫の妙はそこらじゅうにしかけてある。「鳥啼魚の目は泪」というのは、行く春のなかで離別を悲しんで鳥は鳴き魚も目に泪を浮かべている、という感慨である。ここにも、「生類憐みの令」がぬけめなく配慮されている。陶淵明の「帰田園居」に「羈[き]鳥旧林ヲ恋ヒ、池魚故淵[えん]ヲ思フ」がある。「籠の鳥は生れた林を恋しく思い、池の魚は昔の淵を思う」という意味である。幕府は金魚銀魚の戸籍調べをしたとき、幕府が飼っていた魚すべてを放していた。 
芭蕉は挨拶句の達人で、幾多の知人門人にむかって誉めたたえる句を作ってきた。『奥のほそ道』では、まず最初に幕府への挨拶句を献じた。それだけではない。魚とは、芭蕉の生涯にわたる庇護者杉風のことである。杉風は通称鯉屋市兵衛という幕府御用達の魚問屋(じつは幕府隠密)で、芭蕉芭蕉庵を提供した。「生類憐みの令」のもとでは、杉風は商いに苦労をした。泪を流している魚とは、旅立つ芭蕉を見送る杉風のことである。
『奥のほそ道』には、兄半左衛門が行ったこともない日光、白河の関、松島、羽黒山、象潟といった名所旧跡の場面が鮮かに書きこまれている。温泉もあるし遊女まで登場させるサービスぶりだ。さぞかし兄が面白がってくれるはずだ、と芭蕉は考えていた。
伊賀上野に到着したのは五月二十八日で、満を持して素竜筆『奥のほそ道』を兄に渡した。兄の家であたたかく迎えられるが、この日より死ぬまでの五ヵ月間は、それまでの生涯を凝縮したようなあわただしい日々であった。

土芳、半残ら伊賀上野俳壇の連衆がひっきりなしに訪れてくるし、あるいはそれぞれの別邸、草庵に招いて連句を巻いた。大坂道修町からは弟子の之道[しどう]が訪ねてきた。之道さ蕉門の酒堂[しやどう]が、江戸帰りを鼻にかけて、之道の弟子筋を取ろうとしていると訴えた。弟子といったって、銭を持っている学習塾生徒のようなもので、新塾を開いた酒堂が之道の生徒を奪おうとしていた。どうにか止めさせてくれ、と之道にねじこまれた。
そういう話を聞き流して大津へ逃げ、膳所へ行き、京都落柿舎へ去来を訪ねた。すると落柿舎へは京・大坂の弟子どもがつぎつぎと訪れる始末で、静かな落柿舎は合宿所になった。
六月に入ると、飛脚が手紙を持ってきた。そこには「江戸芭蕉庵で寿貞[じゆてい]が死んだ」と書かれていた。寿貞に関してはいろいろの説があるが、芭蕉の妾であろう。いずれにせよ、留守宅の芭蕉庵に住まわせていた女であり、この手紙に対する芭蕉の狼狽ぶりにより、かなり親しい仲であることがわかる。
六月十五日、膳所の無名庵に移り、七月五日まで滞在した。六月二十八日には七部集『炭俵』が出た。盆には伊賀上野に戻って、兄や兄嫁とともに菩提寺、愛染院の墓にお参りした。
八月十五日は、兄の家の裏庭に作った
草庵で月見の宴をしたが、かつて藤堂家で料理番をしていた芭蕉は、料理には詳しい。芋煮しめ、煮物(ふ、こんにゃく、ごぼう、木くらげ、里いも)、吸物(ゆず、豆腐、しめじ、みょうが)、くるみ、肴(にんじん、初焼茸)、吸物(松茸)、冷やめし・・・と出して、生類である魚は使わない用心ぶかさだった。
ただし、茸の食べすぎで下痢をおこし、風邪をひいて、寿貞の夢を見て、うなされた。そんななか、之道と酒堂の喧嘩をさばくべく、大坂へむかい、弟子園女[そのめ]に招かれた句会の料理にあたって、いっそう体調を崩した。薬を飲んでもきかずに床に臥した。
死んだ十月十二日は、暖かな小春日和の一日であった。
芭蕉の危篤を聞いていく人かの門弟が、大坂の花屋仁右衛門の貸座敷へ集まっていた。
前夜より芭蕉の様態は悪化の一方で、食事をとっていなかった。この日は弟子に助けおこされて、粥を少しだけ食べて唇をぬらした。
芭蕉が臥す横の障子に蝿が飛んできてうるさがるため、門弟たちは鳥もちを竹に塗って蝿をとりあった。うまくとる者もいればへたくその者もいて、芭蕉はそれを面白がった。そんなうぢ芭蕉は口をきかなくなり、すーっと死んでいった。

遺言により、遺骸は、故郷の伊賀上野ではなく、粟津の義仲寺へ納められることとなった。淀川の河舟に乗せた白木の柩はまず伏見まで運ばれ、翌十三日の午後十時ごろ義仲寺に着いた。
棺を護ってきた者は、芭蕉第一の弟子其角、惟然[いぜん]など十名である。其角は十五歳で芭蕉に入門した蕉門の古株だが、じつのところ師の晩年にはさからって、反旗をひるがえしつつあった。江戸では芭蕉よりも人気が高く、破門されてもおかしくない弟子である。性豪放の大酒豪で、毀誉褒貶の多い人である。贅をつくさた生活をして酒の飲みすぎで四十七歳で没する。
惟然は芭蕉没後、京都岡崎に風羅坊[ふらぼう]を興して芭蕉像を安置し、風羅念仏を流布した念仏俳人で『近世畸人伝』に、その奇怪なる念仏踊りの図版が掲載されている。芭蕉の発句をつづりあわせて和讃として歌い歩いた。
(念仏-略)
十四日、義仲寺で入棺式が行われ、京都、大坂、大津より芭蕉を慕う者三百余人が会葬した。そこには、酒堂の姿はなかった。
酒堂[しやどう]は晩年の芭蕉が一番可愛がり、その才を認めた俳人である。近江膳所俳人で、はじめの号を珍夕[ちんせき]また珍碩[ちんせき]と言い、大坂に住んで医を業[なりわい]としていた。しかし酒堂の薬では芭蕉の病いは治らなかった。元禄二年芭蕉門へ入り、幻住庵に入った芭蕉に親しく接し、めきめき腕をあげて、元禄三年『ひさご』ね編者となった。芭蕉は、其角よりも酒堂を重んじるようになり、そのため自信過剰ではねあがった。
芭蕉が客死したのは、酒堂に頼まれて、しぶしぶと病身を大坂まで運んだことが原因である。遠慮なく言えば、酒堂が芭蕉を殺したも同然だ。
元禄六年、酒堂は大坂市中に移り住んで同七年に『市の庵』を編み、大坂で勢力をのばそうとしていた。しかし、俳人之道[しどう]とおりあいがつかず、酒堂から芭蕉は仲裁を頼まれた。大坂の俳壇は之道が仕切っており、才にまかせた酒堂が入ろうとして入れるほどやわではない。賭場荒しならぬ俳場荒しは窮地に追い込まれた。極道なら切ったはったでけりがつくが、俳諧道は悪知恵の島で、そう簡単ではない。
仲裁は失敗して、芭蕉は倒れた。
酒堂が葬儀に出なかったことは、芭蕉を憎んだ結果である。その結果、其角はじめ蕉門の激しい批難の的にされ、酒堂はパージされて、俳諧主流より消された。

芭蕉が没したとき、酒堂は二十七歳であった。其角は三十四歳。推定のおおよその年齢である。同じく三十四歳と思われる人物に曲翠[きよくすい]がいる。曲翠は膳所本多藩の藩士で、芭蕉とは並々ならぬ深い仲であった。元禄三年に芭蕉が住んだ幻住庵は、曲翠の伯父幻住老人が住み古した跡地を改築したものである。曲翠は芭蕉の最強の庇護者といってよい。
その曲翠は、芭蕉没後の享保[きょうほう]二年(一七一七)、家老曾我権太夫を斬殺して自刃するに至った。子の内記も切腹を命ぜられ、妻は尼となった。曲翠が家老を殺したのは、家老の奸を憎む正義漢であったためと伝えられるが、尋常ではない。尋常ではない人物が芭蕉の好みである。
芭蕉は伊賀の兄にむけて遺言を書いている。その遺言は、伊賀から大坂に出向いた土芳らが、大坂よりさらに曲翠亭へ行き、受けとって持ち帰った。
伊賀の俳人は、葬儀に出遅れた。これが、遺骸を松尾家菩提寺である伊賀愛染院ほ持ち帰れなかった原因である。伊賀の蕉門は、遺骨ぶんどり勝負で負けた。
凡兆は、酒堂と同じく医を業としていた。俳諧七部集の随一といわれる『猿蓑』に四十一句という多くの発句が収録されている。凡兆は、元禄六年、罪を犯して獄舎につながれ、獄中で「猪の首の強さよ年の暮」という珍句をつくった、と『俳諧世説[せせつ]』にある。
芭蕉晩年から没後の蕉門重鎮は、裏切り者あり、斬殺犯あり、獄中俳人ありで、スキャンダルまみれである。一歩まちがえば、芭蕉も罪人になるところだった。
芭蕉が『奥のほそ道』の旅を終えたのは元禄二年(四十六歳)八月下旬であった。その旅の終りの芭蕉を迎えたのは木因[ぼくいん]である。野ざらしの旅を終ったときも、芭蕉は木因宅に泊った。木因は大垣の舟問屋主人で、名古屋の俳人芭蕉をひきわあせ、芭蕉の新風樹立に力を惜しまず協力した人物である。 
ところが、芭蕉の晩年、ということは没するまでの五年間であるが、芭蕉に反旗をひるがえし、疎遠になりぴたりと会わなくなった。『奥のほそ道』までは、あれほど親しかっただけに、これはどう考えても異様である。元禄二年九月八日興業「一泊[ひととま]り」歌仙以降の反旗、つまり、芭蕉を出迎えて一ヵ月もたたないうちの離反である。       
大垣を流れる水門川[すいもんがわ]沿いの高橋のたもとに「奥の細道むすびの地」の碑[ひ]がある。そこには芭蕉を迎える木因[ぼくいん]の銅像が立っている。銅像の木因は礼儀正しき名家の翁といった気品に満ち、芭蕉、木因像の横に『奥のほそ道』最後の句「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」の句碑がある。大垣より伊勢へ戻った芭蕉は、九月十五日付で、木因に礼状を出している。そこには「此度さまざま御馳走、誠に以て痛み入り、かたじけなく・・・」とある。『奥のほそ道』の芭蕉足跡をたどって歩く芭蕉ファンはいまなお多く、最後は大垣である。大垣の水門川にかかる住吉橋の赤い欄干に柳の葉がしなだれかかり、水門川につながれた和船が川面に黒影を作る。夕暮れていけば、川沿いの木造住吉燈台の橙色の灯がともってにじんでいき、「ああ、ここで旅は終った」と感慨にひたる。木因と芭蕉の友情が旅する人の胸を打つのであるが、現実には、木因は手のひらを返すように離反した。

そうと知って『奥のほそ道』の最終章「大垣」の項を読むと、どこにも「木因」の名はない。出てくるのは路通[ろつう](敦賀まで出迎えた弟子)、如行[じよこう](大垣藩士)、曾良、越人(出迎えた北越の弟子。のち離反)、前川子[ぜんせんし](大垣藩士、重職)、荊口[けいこう]父子(大垣藩士)のみである。二百字に満たぬ原稿に六名もの固有名詞を出しているのに、木因の名がない。芭蕉は『奥のほそ道』で世話になった人の名は必ず出しているから、かなり感情的である。自分に反旗をひるがえした者は、意図的に無視した。
芭蕉の大垣出立は曾良『旅日記』には「午前八時ごろ出船し、木因が馳走してくれた」とある。船の手配から船中の食事まで木因が世話をした。木因まるがかえであった。
さらに船には曾良、路通のほか木因が乗って船中で連句を作った。木因は長嶋まで送った。船中での連句は、
秋の暮ゆくさきざきの笘屋哉(木因)
萩に寝ようか荻に寝ようか(芭蕉)
玉虫の顔隠されぬ月更けて(路通)
柄杓ながらの水のうまさよ(曾良)
と、しゃれた内容(「秋の暮」余興四句)であった。また、伊勢から江戸の杉風へ出した手紙にこうある。
木因舟にて送り、如行其外連衆舟に乗りて三里ばかり慕ひ候。
秋の暮暮行先々ハ笘屋哉(木因)
萩に寝ようか荻に寝ようか(はそを)
霧晴ぬ暫ク岸に立玉へ(如行)
蛤のふたみへ別行秋ぞ(愚句)
二見
硯かと拾ふやくぼき石の露
先如此[まずこのごとく]に候。以上
余興四句には風雅に浮かれている芭蕉の様子がよく出ている。杉風への手紙にまで書きつづったのだから、芭蕉じしん気にいった連句であった。
であるにもかかわらず、大垣の項には木因の名はない。『ほそ道』の旅から帰った芭蕉が最終稿を書きあげるまで五年間かかっている。書き終った元禄七年に芭蕉は没した。旅のあとで木因が裏切ったため、芭蕉は意図的に木因の名を記さなかった。
『奥のほそ道』が井筒屋板本として出まわったのは芭蕉没後八年の元禄十五年、赤穂浪士討ち入りの年である。木因は享保十年(一七二五)まで長生き(八十歳)したから、無念の思いで読んだと思われる。

名古屋俳壇は実力者ぞろいで、荷兮[かけい]が中心人物であった。医師と伝えられるが尾張藩藩士との説もある。荷兮は三十七歳のとき、芭蕉七部集の泰一集『冬の日』を編集して、一躍名をあげた。荷兮が『冬の日』を編じたことは、さぞかし江戸蕉門をあわてさせたことと思われる。つづいて第二集『春の日』、第三集『阿羅野』までも編して、七部集のうち三部までを仕切って地盤を築いた。『阿羅野』に入れた句、
こがらしに二日の月のふき散るか
によって評判を得て、「凩の荷兮」と賞賛された。この荷兮もはやばやと芭蕉に離反し、『橋守』で師風を嘲ったとして蕉門を勘当された。芭蕉存命中に入獄した凡兆にしたところで『猿蓑』以後すぐに芭蕉に離反していた。
芭蕉が評価する弟子は、つぎからつぎへと離反していく。ということは、芭蕉は危険な人物であったのだ。弟子は、自分こそが第一実力者だと思っているから、芭蕉に反旗をひるがえすことは、むしろ当然の行為となる。義中寺葬儀に三百余人が参列したことは、俳風によること第一だが、葬儀を仕切った其角の力が大きい。
芭蕉が性格破綻の弟子をかばうのは、そこに自己の分身を見ていたからだ。それが、門下内の軋轢を招いた。路通がそのひとりである。
路通の境涯はいっさいわからず、芭蕉草津守山に行脚中に拾いあげ、俳道に導き入れた。そのため、路通は芭蕉が死ぬまで、最大の重荷となった。十年以上にわたり乞食[こつじき]生活をして、後年は芭蕉の偽筆を書いて売ったとも言われている。芭蕉門下のなかでひときわ評判が悪く、「路通を破門せよ」との声があがったにもかかわらず、芭蕉は可愛がった。それを不満に感じて芭蕉から離反した弟子がいた。
もうひとり、杜国[とこく]こと万菊丸をはずすわけにはいかない。杜国は名古屋の御園町の町代を務めた大きな米商であった。『冬の日』の五歌仙の連衆に加わり、その才を芭蕉に認められた。『冬の日』歌仙を読めば、杜国がいかに秀[すぐ]れた感性の人であるかがわかる。杜国は女にしたいほどの美貌の若衆で、芭蕉はたちまち心を奪われた。

しかし好事[こうず]魔多しのたとえ通り、「米延商[のべあきない]」(空売り)の罪で御領内追放の刑に処せられた。本来なら死罪のところ、家屋敷、店舗などすべてを没収されて伊良湖岬に近い保美へ流刑となった。
『笈[おい]の小文』は、芭蕉と杜国との極秘の旅日記で、本来なら刊行してはならぬ「禁断の書」である。『笈の小文』は、芭蕉に誘われた杜国が、死を覚悟しての旅であった。
笈の小文』は江戸から名古屋、伊良湖岬を経て貞亨四年(一六八七)、伊賀上野の実家に帰るまでの前半と、翌元禄元年に流人杜国を連れて明石、須磨、京都をめぐる後半の旅である。正月を伊賀の実家で過ごしたから旅が二分されて、一つの紀行としてはまとまりがない。
これは、江戸芭蕉庵を出発地として考えるからそうなるのであって、芭蕉の胸にある出発地は、つねに伊賀上野である。ちなみに東京の上野は藤堂家が築いた地であるところよりその名がついた。
江戸の芭蕉庵は仮りの拠点である。
笈の小文』前半は、「恋人」である杜国が流された伊良湖岬行が目的であり、後半は杜国を連れて奈良、吉野、明石、須磨、神戸、京都と廻った「恋の道行き」であった。これをどう構成するかは至極むずかしく、それが、この紀行が未定稿のままになった表むきの理由である。『笈の小文』は芭蕉が道すがら書き残した原文を、弟子の乙州[おとくに]に預けておいたものである。乙州は大津蕉門の荷問屋で智月[ちげつ]の子(一説には弟)でもあるから、芭蕉の信頼が厚かった。
芭蕉が『笈の小文』を乙州以外の弟子に見せずに秘密本としたのは、この紀行が杜国との秘密旅行だからである。流罪者を連れて旅することは犯罪になる。
杜国との旅がばれれば芭蕉もまた罪人となる。
芭蕉はこの旅の六年後に五十一歳で死ぬが、ふてぶてしいほど確信犯の旅といってよい。「芭蕉毒殺説」が出るのはあるいはこの旅との関連かもしれない。芭蕉没後、『笈の小文』は宝栄六年(一七〇九)に乙州の手によって板本で印刷され、流布するに至った。したがって構成は乙州がなしたものである。
芭蕉の周囲は危険人物だらけである。にもかかわらず、俳聖としてあがめられ、数百にわたる研究書や評釈集も、芭蕉を「求道[ぐどう]の人」「枯淡の人」「侘び寂びの俳人」としている。俳人の多くが芭蕉を深読みし、深読みすればするほど芭蕉像は七色の虹に彩られていく。