「51Cのその後 - 山本理顕」51C家族を容れるハコの戦後と現在 から

 

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「51Cのその後 - 山本理顕」51C家族を容れるハコの戦後と現在 から

鈴木成文さん、上野千鶴子さんと話をさせていただいて、それぞれの微妙な違いが面白かった。微妙だけれども、その小さな差異をめぐることで、建築というものがどのような形で社会に受け入れられていくのか、あるいはどのような形で社会に影響を与えてしまうのか、それがわかったようにも思う。お互いにその微妙なところが伝わらないもどかしさとともに、社会学者と建築計画学者と建築家、異種格闘技のような近親相姦のような、極めて刺激的なシンポジウムでした。
鈴木さんは51Cの説明を戦後の焼け跡の写真から始められた。その時代の社会状況がどのようなものだったのか、その社会状況に対して51Cがどのようにつくられていったのか、その克明な経緯をうかがった。いかに当時の社会状況に対して真摯に応対しようとしたか、その情熱は今でも私たちの胸を打つ。51Cの時代、住宅に対する要請は今の私たちの時代とは全く違う要請があったはずである。何よりも住宅の絶対量が不足していた。大量に、しかもローコストで住宅を供給しなくてはならない。そしてそのためには、一戸当たりの床面積に大きな制約を受けざるを得なかった。51Cはわずか三五平米程度の床面積で、そこに家族四人が住むことが想定されていたのである。
当時の技術水準と経済的な制約の中で、さらに、耐震、耐火を実現しながら、鈴木さんたちは最高度に合理化されたプランを発明した。そのプランに対する鈴木さんたちの自負は当然のことである。でも、問題はそこから先である。その51Cができたことで何が変わったか。当時の社会状況に応じてできあがった51Cが、逆にその後の時代を誘導する非常に大きな役割を演じたのではないかと、社会学者の上野さんは思う。私も思う。
“その後”に関しては、鈴木さんは51Cの理想とは全く違う方向に行ってしまった。そこまでは責任負えないよ、という態度であるようにお見受けした。いわゆるnLDKのプランは51Cの理想とは何の関係もない。あれは単なる商業主義だよ。というご意見だった。でも、私は51Cとその後のnDLKとは深く関係していると思う。これは鈴木さんたち、51Cの開発チームに対する批判ではなくて、むしろ、51Cの功績は十分評価されるべきであるという前提で、それでも、当時、鈴木さんたちが思いもよらなかったところで、51Cは“その後”の私たちの生活に非常に大きな影響を与えたと私は思うのである。影響の本質的な部分は二つある。

  • 鉄の扉(甲種防火戸)一枚で外部から全く隔離されるような形式の住宅であったということ。
    耐火建築が51Cの最大の目的の一つでもあったわけだから、そのために、甲種防火戸(鉄の扉)は当然、必要だった。甲種防火戸を使うことに何の躊躇もなかったと思う。つまり、鉄の扉に関してはノーマークだったと思う。実際みんな開けっ放しで生活していましたよ。使う側の方がそんなもので隔離されるなんて思ってもいませんでしたよ、と鈴木さんは一笑に付したけど、でも“その後”の多くの人たちは、そんな扉一枚で外部から完全に隔離されるような生活の仕方を、これこそ尊重されるべき生活の仕方だと思ったのである。それ以前の生活に比べて最も尊重されるべきなのはプライバシーだった。そして「鉄の扉」はそのプライバシーの象徴だったのである。そのように私たちは受け止めたのである。鉄の扉で相互に隔離されるような生活の仕方を今では私たちは誰も疑わない。その後の私たちの生活の仕方は51Cによって、そのスタートのところで方向付けられたと言ってもいいように思うのである。
    ②そしてもう一つ。この閉じた形式の住宅に家族という単位が過不足なく収まるということ。
    (それはつまり、家族という単位も閉じた単位であるということである。)この二つである。この二つの特徴によって、住宅は一つの閉じたパッケージとして考えることができるようになったといえる。つまり、閉じた単位の内側の問題が住宅の問題になっていったのである。同時に、閉じた単位の内側の問題が家族の問題になっていったのである。鈴木さんは、51Cのプランの新しさ、部屋相互のフレキシブルな関係について話してくれた。それは確かに当時としては画期的に新しい発見だったと思う。でも真に革命的だったのは、住宅を内側のプランの問題として扱えるという発見だった。つまり、閉じた単位の内側の問題が住宅の問題であるという、そういう構図をつくったことである。

その後、新しく発足した日本住宅公団はこの住宅を「2DK」と呼んだ。私たちはその記号によって表わされる住宅を二つの寝室と一つのダイニングキッチンによって構成される住宅だと解釈した。これ以降、住宅は一つのパッケージとして、寝室の数とDK(またはLDK)の組み合わせによって表わされることが一般化していったのである。今では、その記号だけでその住宅がどのような住宅か私たちはたちどころに知ることができる。こうした住宅を指して「nLDK」タイプと呼んだのは、建築家ではなく“その後”を分析する役割の上野さんたち社会学者じゃないかと思う。新しい言葉を普遍化していくときの社会学者パワーは相当厚かましいから、おかげで「nLDK」は今では現代住宅を表わす代名詞のようになってしまった。 
鈴木さんたちの理念は「nLDK」のような、閉鎖的な、一つのパッケージとして認識できるような住宅などでは決してなかったと思う。でも結果的には、鈴木さんの意志に反して51Cは明らかに「nLDKタイプ」の原型である。だからこそ、今でも、51Cは歴史的な評価を獲得し得ているとも言える。その閉鎖性を鈴木さんたちの責任というつもりで言っているのではない。当時、都市に住む多くの人たちが、一方でこうしたプライバシーの高い住宅を望んでいたのである。51Cは従来の、周辺に対して無防備な住宅とは違って、新しい住まい方を象徴するものだった。むしろ、住宅は閉鎖的でこそあるべきだったのである。今も多くの私たちはそれが当たり前だと思っている。
51Cができることで何が変わったか。家族という生活単位がより強化された。家族という生活単位がより閉じた単位として認識されるようになっていった。むしろそのように構想された生活の仕方に、51Cはぴったりだったといってもいい。その相互の関係の歴史が上野さんの興味の中心である。上野さんにとっては51Cはすでに歴史の中の出来事なのである。でも、鈴木さんにとっては未だに51Cは自分の意志である。そこが微妙な差異の原因の一つだったと思う。
私にとっても51Cはすでに歴史の中の住宅である。建築は同時代の社会的な状況に深く関わってしまう。時にはその社会状況を変えてしまう。そういうとんでもない力を持っているものなのだと、この51Cの歴史を見ていてつくづくそう思う。そして、皮肉なことに、時には建築家の当初の意志とは全く無関係に歴史はつくられていってしまう。だからこそ、未だに持ち続けておられる鈴木さんの意志を受け継ぐのは、われわれ建築家の責任である。それだけは十分自覚しているつもりです。