「都合のいい偶然 - 土屋賢二」文春文庫日々是口実から

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「都合のいい偶然 - 土屋賢二」文春文庫日々是口実から

幸福な一日だった。大谷がホームランを打った。それだけで心がはずむ。外へ出ると、雨上がりで道路は光り、穏やかな日差しが心地よい。近所のネコと窓越しに目があい、しばらく見つめ合って気持ちが通じた気になる。幼児が二人キャッキャ言いながら走り回っている。ラーメン店で注文すると、いつもよりチャーシューが厚い。隣で食べているイケメンが餃子を一つ床に落とした。駅に行くと待ちかまえていたように電車がすぐ来る。もし妻が旅行に出かけて二、三日留守にしたら、極楽にいるかと勘違いするところだ。
これらはすべて偶然である。大谷選手の活躍も天候も隣のイケメンの不幸も電車の到着も、わたしとは無関係に起こった偶然である。チャーシューは、たとえば三センチのチャーシューを九等分しようとしたとき、アルバイト店員が「辞めます」と言ったのに動揺した店主が、八等分の厚さに切ってしまい、通常より厚くなったなど。
ひらめいた。幸福は細部に宿る。何でもない偶然の中に幸福は宿る。
逆の日もある。朝、お茶をこぼして妻にとがめられ、外出でドアを閉めるとき指を挟んでしまう。外へ出ると、近所の犬が狂ったように吠える。喫茶店に行くとウエイトレスにいつもの笑顔がない。コーヒーを置くのもぞんざいだ。郵便局に行くと、窓口の係員が不機嫌そうな顔で「チッ」と舌打ちする。郵便局を出て公園に行くと、親たちの視線が氷のようだ。先日、公園のベンチでスマホを見ていただけの中年男が警察に通報されたことを思い出し、公園を出る。その後、電車に乗り、女子学生の隣に座ったとたん、学生が立ち上がって電車から降りる。
これも偶然が重なっただけだ。たとえばウエイトレスは恋人にフラれた上に風邪を引いていた。郵便局員は歯を抜いたばかりでまだ痛く、抜いた場所を舌で触ると「チッ」という音が出る。電車の女子学生は目的の駅だと気づいてあわてて降りたなど。いずれも、わたしと関係なく起こる偶然である。それが重なっただけで不幸になるのだ。これが何日も続けば、人生に疑問を感じ、人生の意味を深刻に問うようになるだろう。
世間の幸福論も哲学者の幸福論も、こうした偶然の力を見くびっていると思う。人生の意味を見出せない悩みも、偶然宝くじが当たれば雲散霧消するのだ。
わたしは学生時代、赤貧洗うがごとき貧乏生活を送っていた。食パン一斤で一週間過ごしたり、空腹で眠れないこともあり、痩せこけていた。いくら考えても哲学の問題の解決は見出せず、論文を読んでも理解できない苦しい日々。人一倍享楽的なわたしがなぜそんな生活に耐えられたのか、不思議だった。
たぶん小さい偶然で幸福感を味わえたからだろう。たまに論文の一箇所理解できた、気晴らしに読んだミステリが面白かった、大学の食堂の賄い係がポタージュスープの濃い部分を皿に注いでくれたなど。
以前入院したときもそうだった。医師が信頼でき、看護師の女性がみんな親切で優しい。看護師さんからは人生相談をされるほど打ち解けることができた。これは偶然ではなく、わたしの人徳のせいだが、わたしに人徳がないとしても、こういう偶然が重なれば幸福感に包まれるだろう。
幸福になるのに必要なのは「都合のいい偶然」だ。金を稼いだり、内面を磨くよりも、はるかに強力に幸福をもたらすのは、何でもない小さな偶然なのだ。
それが薄々分かっているから、ほとんどの人は、わたしと同じく、内面を磨かず、何につけても運に頼る、人間的に未熟な老人になってしまうのだ。