「簡単な死(抜書) - 秋山駿」日本の名随筆96運から

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「簡単な死(抜書) - 秋山駿」日本の名随筆96運から

別にどうと言うこともなく、私は毎日確実に、一歩一歩死へ向って降りてゆく。
たいして特別の感想もなく、たいして意外の感覚もなく、たいして痛切の思いというものもない。ただ、確実に或る果てがやってくる。そこで自分というものが無くなってしまう。と、そう思う時の一種微妙な不思議さの感情なら、現にいま私は所有している。それこそ、私が生きているということなのであろう。
それでは、死の恐怖とか不安はどうなのか、というと、私はそれを持っている。むしろ、しっかりと掴んで離さない。生来恐怖し易い体質の私は、非常に死ぬことを恐がった。特に死ぬためには異常な苦痛を経験しなければならぬ、と思うことが不愉快だった。私は苦痛は嫌いである。避けることのできない苦痛を眺めて、ああどうか苦しみたくないものだ、なんとか逃れる方法はないものか、などと思い惑うとき、不安が生ずる。
しかし、この恐怖もこの不安も、もう一度考えれば、さして特別なものではない。眼を見張るような顕著なものではない。誰でもがごく普通に持っているものである。毎日大勢の人がなんとなくそれを確実に経験しているのだから、その大勢の中の一人であるところの私が、やがてそれを何と言うこともなく確実に経験するであろう、と思うことに何の意外さもない。別に、私一人だけが格別に取り乱すということもあるまい。
私はむしろ、この不安と恐怖を、生に刺戟を与える微量の劇薬のように使用している。自己回復の手段として、眠り込む心を刺すのにこれ以上の針はない。止っていた鼓動が再び動き出し、生き生きとした怖れが戻ってくる。たぶん死は、その恐怖を通して、生の深い源泉の一つなのであろう。それにまた、日常の飽き飽きした光景を改変するのに、これほど手頃な発条もない。一瞬にして、世界の様子が変る。いわゆる市民生活というのが、何か滑稽な人形劇に見えてくる。
時折この劇薬を、貴重な酒ででもあるかのように、ほんの一滴使用する(麻薬など喜んでいる人の気が知れない)。すると、いつも、あの昔ながらの古い感情の中からの親しい歌のようなものが聴こえてくる。 - 日の光りにさらされて、ドブネズミは今日クタバッタ......。

〈私はここまで。〉