「吾[あ]が妹[いも]へ - 池部良」江戸っ子の倅[せがれ]から

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「吾[あ]が妹[いも]へ - 池部良」江戸っ子の倅[せがれ]から

家内美子との結婚は見合いに始る。
見合いは片山竜二さんといわれるラジオのパーソナリティーをやっておられる方によってかなり強引な手段で進んだ。
「美子さんは青山のボーリング場でお待ちになっています。さ、急ぎましょう」と言って僕の車の助手席に乗っていた片山さんは降りた。
片山さんは、ボーリング場に飛び込んだら、レーンの前に来て、突然立ち止り、
「あれ、あれ、美子さんではありませんか。ボーリングなさるんですか。あ、こちら、あたし前からよく存上げてる池部良さんと偶然、放送局で出会いましてね」と言う。
下手なおででこ芝居をしてと腹の中で舌打ちをしたら、
「池部さん、ご紹介しましょう。M製菓会社創立者松崎半三郎さまのお嬢さま、美子さまです。才色兼備とはこういうお嬢さまを申し上げるんでしょう」とのこと。
美子さまは、見るからに小柄に出来ていて彼女の頭の天辺[てつぺん]が僕の肩先にしかないようだ。造作は小さく鼻も眼も唇もアウトラインが綺麗に描けているが顔の輪郭同様小さく、だが形、配置がいい。僕はちょっと嬉しくなった。強いて言わせてもらえば目玉が顔の輪郭から食[は]み出しそうに大きい。拡大解釈して美人の範囲に入ると思った。
「美子さんは、勿論、池部良さんの映画を御覧になっていますよね」と片山さんが言ったら「いいえ、池部良という俳優さんのお名前は今始めて知りましたの。従いまして池部さんの映画は存知上げません。あたくしが知ってて、こよなく愛した俳優さんはアメリカのロバート・テイラーだけですの」と彼女はおっしゃってレーンの方に顔を向けた。それからの三か月、両家と言っても池部家はおやじ、おふくろ共々に「お前が選んだ道だ。自分で決着をつけるんだな」と取り合ってくれなかったから僕と美子さんの親御さんの間は片山さんが往復してくれて、やがて婚約の運びとなる。
美子さんに僕という人物をよーく見てもらいたかったし僕も確[しつか]りと彼女の人となりを知りたいと思い、僕の運転で美子さんをドライブに誘ったら彼女は僕の誘いを、快くとは思えなかったが、意外な率直さで受けてくれたので、彼女を乗せ一応東海道(国道)を短時間下ってみることにした。結婚前のお嬢さんを自動車という密室に入れてのことだから、御当人は勿論、彼女のお母さん達も心配なさるだろうとせいぜい茅ヶ崎辺りで引き返そうと考えた。
助手席に腰かけている美子さんは、小さな身体をちんまりと飴細工の人形を冷やして固めてしまったようだった。身動き一つしない。
車が小石に乗りかかったり、一寸[ちよつと]した穴に車輪が落ちたりするときは軽くブレーキを踏む。車は穏やかに速度を落とすと、車体は指で触れたほどに小さく前のめりをする。それなのに美子さんは固まった上半身をつんのめさせてフロントガラスに額をぶつけ、血を一筋垂れ流した。
「大丈夫ですか。病院へ行きましょうか」と心配しても「ちょいと痛めたようですが死ぬほどではございません」と言って口を噤[つぐ]んだ。
彼女は只管[ひたすら]大きな目玉を剥いて前を見据えている。御返事がないようなのでそのまま走り続けたら箱根の芦ノ湖が見下ろせる峠に来てしまった。車を止めて、「美子さん、芦ノ湖には何度も来てますか」と聞いたら、「え、湖なんですか、これ。嘘でございましょう。本当はこの海、何と言う名前なんですか」と聞かれた。返事のしようもない。
ふと腕時計を見たら針は午後五時過ぎを指している。驚いたの何のである。
これから帰れば、又三時間はかかる。
結婚前のお嬢さんを夜遅くまで引き回したとなると御当人は勿論、M家の方々にも申し訳なく、世間の口さがない奴等に、あらぬ疑いを持たせては大変だと判断。
「もう帰りましょうか。あまり遅くなってもいけません」と言ったら、「大丈夫でございます」と言った。
そう言われてみると多少気が楽になって、「じゃ十国峠を下って、熱海に出て行きたいと思うのですが、どっちにしてもお腹が空く次官です、差し支えなかったら、熱海にある“重箱”と言う有名な鰻屋に寄って行きましょう」と提案したら「はい、差し支えございません」という即答があった。
「まあ、池部さんお珍しい」とお内儀[かみ]さんに迎えられ、雰囲気のある茶室造りの室[へや]に通された。
「東京の母のところに電話を掛けたいのですけれど、よろしゅうございますか」と聞く。
「勿論です」と電話器を彼女の前に引き寄せて上げた。
「お母さま、あたし、美子、え?どうって?まさか、そういうときは、あたし結構強いのよ。-ここ鰻屋さんだから包丁が沢山あるわ、お借りして、ぶすッよ。
まさかです、でも池部さんて(彼女は僕に背中を向け、小声で)、ロバート・テイラーとは月とすっぽんの違いほどだけど、日本人としちゃ足が長いし、まあまあだと思うわ。
それにね、気が小さそうなの、そうよね。美子うまいこと操縦出来るようよ」という話が僕の耳に微[かす]かだがつたわって来た。
彼女は今日までの四十何年間、この気の小さな日本人の男に、結婚前の予想とは大外れに外れ、僕の身の回りをよく見てくれる。その上掃除、洗濯、台所仕事には、余人が手を出し口を挟むのを嫌って、一人で熟[こな]している。
結婚式のとき、ふと見た彼女の手の指は干した白魚のようで痛々しかったのが、大分様相が変わっていて、逆な痛々しさを感じる。
まあ、これだけで彼女を語り切ったと言うわけにはいかないが、一端は紹介したつもり。