「彼女と別れて銭湯のあと餃子 - 片岡義男」アンソロジー餃子から

 

「彼女と別れて銭湯のあと餃子 - 片岡義男」アンソロジー餃子から

小田急線の下北沢から新宿へ。新宿から山手線で池袋まで。そしてそこから赤羽線という電車に乗って十条へ。いつも僕は駅の西側へ出ていた。一九六〇年代なかばのことだ。その頃から現在までのあいだに、駅前がどれだけ変化したのか、僕には見当のつけようもない。ほぼ正面に十条銀座という商店街の入口が見えていたことは確かだ。駅を出てその入口まで、自分がいつもどんな経路をたどっていたかも、僕には思い出すことが出来ない。
商店街の入口に向けて歩いていく僕から見て、入口のいちばん外の右側に、彼女はいつも立っていた。僕との待ち合わせの場所がそこだったのだが、待ち合わせの場所と言うよりも、彼女にとっての定位置がそこだった、という言いかたをいまの僕はしてみたい。ひとりで立っている彼女のすぐうしろにある建物は、木造平屋建ての小さな店で、印鑑や名刺を作る店だったように思う。十条に住んでいた大工の器量良しの娘さんであった彼女に、その店の側面は背景としてこの上なく似合っていた。
彼女はいつも右のほうに目を向けていた。僕が駅から歩いて来るのはよくわかっているのだから、駅のほうに目を向けていてもいいではないかと思うし、改札口の外にいてもよかったはずだが、彼女は常にその定位置に立ち、右のほうに目を向けていた。当時二十代なかばだった僕は、二歳だけ年下の彼女の左の横顔を見ながら、彼女に歩み寄るのが常だった。その横顔の記憶が、いまの僕にあるだろうか。
ややきつい印象をあたえる目鼻だちだったが、誰の目にも美人に見えたはずだ。ややきつい印象は、目鼻だちにとどまるものではなく、明確な意志によるクールな判断力にまで届いているもののように思えた。少なくとも僕にはそんなふうに感じられた。そしてそれは、彼女が持っていた魅力の、中心的な部分を構成していた要素のひとつだった。
土曜日の午後、雨が降らなければ、僕たちはここで会っていた。それが僕たちのデートだった、という言いかたをしてもいい。その年の六月の終わりから始まり、デートは六回まで続いた。いつも十条銀座をふたりで端から端まで歩いた。アーケードになっていたかどうか、いまよりはるかに雑然としていた、と僕は記憶している。途中に脇道が何本もあった。ひとつずつ入っては引き返し、和菓子の店や惣菜屋衣料品店などほとんど一軒ずつ、陳列してある商品を見ては感想を述べ合う、という不思議なデートだった。一度だけビリヤードに入った。彼女にとって玉突きはなんの興味も持てないものであり、そのことをいっさいフィルターにかけることなく態度に出すのは、それもまた彼女の魅力だったと言うなら、そうも言えただろう。喫茶店に入ると彼女はソーダ水を注文し、それをもの静かにストローで飲んだ。午後の一時三十分前後に落ち合い、十条銀座の中心をくまなく歩き、二時間ほどをともに過ごした。四時過ぎには商店街のどこかでそのデートは終わりとなり、僕は駅へと戻って池袋行きの電車に乗った。彼女はそのまま自宅へと帰ったのだろう。自宅はすぐ近くだと言っていたが、どこだったか僕は知らない。自宅へはいったことがないし、その前あるいは近くを歩いたこともない。十条仲原のどこかだろう。ただし環状七号は越えなかったはずだ。二軒隣りが銭湯だと彼女は言っていた。
六回だけのデートだったが、いつも場所は十条だった。そしてデートの内容は六回ともほとんど同一だった。池袋や赤羽は嫌だと彼女は言った。新宿や渋谷はもってのほかであり、銀座や日本橋は存在しないも同然だった。小さな財布だけを彼女は持っていた。ただし服装はお出かけのものだった。夏だから半袖のシャツにスカート。あるいは、前開きねシャツ・ドレス。靴はいつもパンプスだった。身につけている服、そしてその下にある体には、清潔さを超えて彼女独特の配慮があるように思えた。常に一定の状態のなかにきれいに整えておき、その状態を崩したり変えたりはしない方針を遵守する、というような配慮だ。化粧をしない顔は、そのような彼女を象徴していた、と僕は思う。髪のまとめかたがいつもおなじだったが、そのまとめかたは彼女にじつによく似合っていた。似合うだけでなく、簡単には真似の出来ないような風情がかもし出されていて、姿のよさが美人の目鼻だちと重なるとそれだけで充分であり、化粧など必要ないことを、彼女はよく知っていたのではなかったか。
十条の商店街を歩きながら、僕と彼女がなにを語り合ったのか、記憶はほぼ完全にない。ふたりに共通の話題はあったのだろうか。ほとんどなかったようにも思う。ふたりともおなじ世代の二十代で、おたがい独身であり、年齢は二歳しか離れていないのだから、おたがいに無理することなく話の出来る領域はあったはずだ。黙っている時間が多かった、という記憶はない。むしろその逆だ。ふたりはいつもなにか喋っていた。ではその内容は、どんなものだったのか。
その年の夏は彼女にとっては二十三歳の夏だった。地元の商店街を僕とふたりで歩いて、彼女はなにをしたかったのか。胸の片隅にささやかに思い描いた、せつない目標があったのだろうか。いまはすっかり消え去ったけれど、当時はまだ生きていた基準によれば、彼女は結婚適齢期というものを、静かに越えていきつつあった。
高校を出て三年ほどどこかの会社に勤める。そのあいだに見初めてくれる男性がいれば、ほどなく今日の佳き日を迎えることが出来、その日から三年もたてば、乳飲み子がいるかあるいはお腹で月を満たしつつあり、名実ともにうちのかみさんだ。しかしどんなかたちにせよ僕たちのあいだで結婚が話題になったことは一度もなかった。話題にはしないけれど、彼女なりにいろんな視点から、僕を観察していたのだろうか。
ふたりで脇道を歩いていて、新築のアパートの前をとおりかかったとき、こんなところに住めたらいいわね、と彼女が感嘆とともに言ったのをなぜか僕は覚えている。その頃はまだごく一般的だった木造モルタル二階建てのアパートではなく、新建材による新しさを感じさせる造りではあったけれど、基本的にはごく平凡な簡素なものであり、間取りは団地2DKとおなじようなものだっただろう。
このアパートの近くにも銭湯があった。おもての商店街から脇道に入り、百メートルほどいったところだ。煙草屋のある角を右に曲がった記憶がある。おもての商店街は現在の十条中央商店街の通りではなかったか。十条銀座に東側から入ってすぐに、右へいく道がある。この道でJRの踏切を渡ると中央商店街だ。しばらく歩くと篠原演芸場が、商店街に面して左側にある。当時からすでにあったはずだ。あったとしてもいまの建物とはまるで違っただろう。東十条駅の南側に向けて下っていく道に入る手前の交差点まで、この商店街を僕たちは何度も歩いた。畳屋の練達した仕事ぶりを、ひとしきり眺めたことがあった。姉と弟がひとりずついて、それに両親の五人家族だと、彼女は言っていた。姉は嫁いでいてすぐ近くに住んでいる、ということだった。姉を観察して得たものを、自分の身に役立てるのは、妹の特権だ。譲れないものに関しては一歩も引かない。嫌なものは徹底して撥ねつける、という場面を僕が具体的に目にしたことはなかったが、そのような場面の彼女はもっとも彼女らしいありかただったのではないか、と何度か僕は思った。そのような印象が、若い彼女の魅力のひとつになっていた。自分がなにを求めたり目指したりしているのか、というようなことについて、彼女はなにも語らなかった。自分にもよくつかめてはいなかったのではないか。もしそうだとすれば、まさにそこが、僕と彼女との、おそらく唯一の接点であったはずだ。
僕よりひとまわりほど年上の知人から、彼女を紹介された。きみはおなじような年齢の女性とつきあうべきだ、とその人に言われたような記憶もある。その人は赤羽に住んでいた。十条に住んでいる親戚にちょうどいい女性がいるから引き合わせる、と言われて赤羽の喫茶店で、ある日の夕方、待ち合わせをした。
それ以前に、その人は、赤羽の駅のすぐ近くにあった餃子の店を僕に教えてくれた。何本も交錯する狭い路地のなかに、壁や軒を接してびっしりと建っていたさまざまな店のひとつが、その餃子の店だった。中年の夫婦が切り盛りしていて、小ぶりなぷっくりとした芳しい餃子は、その人が熱心に薦めてくれたとおり、たいへんおいしいものだった。ある時期、僕はその店に何度もかよい、常連の客となった。
その人を交えて喫茶店で初対面の世間話をした。商業高校を出た彼女は川口にある会社で経理の仕事をしている、ということだった。広くとらえるならこれは見合いだと思うが、当時の僕はそんな意識はまったくなかった。僕は彼女に自宅の住所や電話番号を教え、彼女は会社の電話番号を教えてくれた。なぜそのことを覚えているかというと、次に会う日をきめるにあたって、僕は彼女の勤める会社に電話をしたからだ。
なんの関係もない会社に電話をかけ、つい先日初めて会ったばかりの女性に取り次いでもらい、もしよければ近いうちにまた会いましょうというような話をし、会う約束を取りつけて日時と場所をきめていく、という一連の行為をしている自分と、その自分を客観視している自分とのあいだの、奇妙な距離はいまもくっきりと覚えている。この距離のなかに、当時の僕という二十五歳の青年は、社会への入口を見ていたのではなかったか。

十条でのデートは六回まで続いた。六度目はお盆の前だった。次に週の土曜日と日曜日はお盆で家族とともに母親の田舎にいくから、今日とおなじようにあなたと会うことは出来ない、彼女は言った。その六回目のデートを終え、十条銀座の奥のほうで彼女と別れたとき、「もうこれで会わないようにしましょうか」と、彼女に言われたときのことを、いま僕は思い出している。過去の出来事が記憶のなかに蘇るのではなく、僕そのもなとして、彼女のそのひと言はいまも僕のなかにある。向き合って立っている至近距離から、まっすぐに僕の目を見てそう言ったときの彼女は、僕の知るかぎりではもっとも美しい彼女だった。
彼女のその言葉を受けとめた僕は、相当に狼狽したはずだ。それがどのくらいまで表に出たかどうかは、いまとなってはどうでもいい。もう会わないときめるのは、いまではなくてもいいではないか、もう少し時間の余裕を持たせてもいいではないか、というような思いが胸のなかで渦巻くのを、なにかの痛みのように自覚しながら、僕は彼女の提案を受け入れた。ではそうしよう、というようなことを、僕は彼女に答えた。
微笑している彼女は、そのとたん、僕から思いっきり遠い人となった。彼女とはどこにも接点を持てないまま、なにひとつ知らずなにも語り合えないまま、彼女はいきなり存分に遠のき、完璧な他人となった。おそらくこれで二度と会うことのない彼女に、待ってくれ、もう少しだけここにいてくれ、と叫びたい気持ちを胸のなかに感じながら、彼女が差し出した手を取って僕は握手を交わした。彼女の背後、百メートルほどのところに、銭湯の煙突が見えた。
僕はふられたのだ。ほうり出されてひとりになってしまった。そしてその自分を、僕は受けとめなくてはいけなかった。彼女がいきなり遠い存在になったとは、そのような意味だ。僕そのものを、そのぜんたいにおいて、否応なしに、僕は引き受けなければいけなかった。もし、彼女と恋人どうしのような関係になっていたら、その関係が僕を浸食してしまい、それによって彼女に預けた部分を自宅のなかに持ち、したがって引き受ける自宅には欠けたところのある、不充分な自分になったに違いない、といまの僕は確信を持って思う。
彼女にふられた僕は、彼女から丸ごと返却されたと言っていい自分を、すべて受けとめた。受けとめながら、これが自分だよ、おまえはこういう奴だ、と僕は自分で自分に言っていた。自分の輪郭があらたにくっきりと引きなおされた気持ちで、僕はその場から歩み去る彼女のうしろ姿を眺めた。眺めれば眺めるほど、自宅の輪郭が明確さを増していった。明確になりすぎることに耐えられないところまで到達して、僕は駅の方向に向けて歩き始めた。
十条銀座に戻り、駅に向けて歩きながら、銭湯に入っていくことを僕は思いついた。僕に別れを告げたとき、彼女の背後に銭湯の煙突があったではないか。あの銭湯に入っていこう。引き返しながら僕は、これもなにかの記念になるだろう、と思った。銭湯に入り、湯上がりにコーヒー牛乳を買って飲み、十条銀座を歩いて駅に向かった。そして赤羽へいき、いつもの店でいつものとおり、餃子を二人前食べた。
自宅の二軒隣りが銭湯だ、と彼女は言っていた。彼女と別れたあとで僕が入った銭湯こそ、彼女の自宅から二軒隣りの銭湯だったのではなかったか。銭湯は確かに記憶のなかの記念品になっている。あの銭湯の煙突は、あのとき、晴れた日の青い空の下で、真夏の午後の陽ざしを浴びていた。