「酒の飲みようの変遷 - 柳田国男」木綿以前の事 から

 

「酒の飲みようの変遷 - 柳田国男」木綿以前の事 から

酒を飲む風習は日本固有、すなわちいつの頃とも知れぬほどの昔から、続いているものに相違ないが、その風習の内容に至っては、昔と今との間に大きな変遷がある。これだけは是非とも日本人として、はっきりと知っていなければならぬ。この古今の移り替りを一通り承知した上でないと、各人はまだ自由に、酒を飲んでよろしいか悪いかを、判断することができないのである。
酒の飲み方がどういう風に変ったかは、書物で読んでみても一向に書いてはない。しかも知ろう

と思えばその方法は別にあるので、殊に最近の歴史だけならば、多くの人たちは自分でもまだ覚えている。大体に一人一人の飲む分量が、半世紀前と比べてはよほど減ったかと思われる。下戸[げこ]が増加したこともたしかにあるが、それよりも大酒飲みという人が少なくなり、平均消費は減退の傾向を示している。いわゆる斗酒[としゆ]なお辞せずという類の酒豪の逸話は、次第に昔話の領域に入って行こうとしている。もとは正月の街頭風景であった生酔いの礼者、
なまよひの礼者を見れば街道を横すぢかひに春は来にけり
などと詠まれたものが、絶無でもあるまいが今日はよほど珍しい見ものになった。酒乱は一種の病気と認められ、その療法としてはたちまち禁酒を申し渡される。以前は御祝いの日に附き物であった例の小間物屋開店などの惨憺たる光景も、知らずにしまう女子供も多くなってきた。是などは明らかに一種急性の中毒症状なのだが、或いは主人側の款待[かんたい]が是ほどまでに徹底して効を奏したという証拠のごとくにも解釈せられ、もとはこの介抱だげは眉を顰[ひそ]める人もなく、普通に酒宴の後始末として女たちが引き受けていたのである。
単に酒の価が以前は安かったから、多く飲んだという経済的な理由だけでなく、一般に酒の毒は昔の方が急劇であったのかも知れぬ。中世の記録を見ると、公けの御宴会でも淵酔[えんすい]とか沈酔[ちんすい]とか謂[い]って、多くは正体がなくなり、またこのような失敗を演ずる者が、いくらもあったように記してある。高くもなったけれども酒の質が、今は前代とは比べものにならぬほどよくなったのである。その上味もよくなり、色もいよいよ美しくなって、幸か不幸か嗜好品としての資格を、だんだんと具備するようになってきたのである。



酒を飲む機会の昔と比べて、非常に多くなってきたのも、一つはその結果と言ってよいのである。いつでも飲みたいという人が沢山に出てこなければ、造り酒屋は商売として成り立つはずもなく、また又六[またろく]などと呼ばれる取売店[とりうりみせ]が、繁昌するようにはならなかったわけでもある。尤[もつと]も近年の罎詰[びんづめ]小売法が考案せられてから、急に僻村[へきそん]でも酒が手に入りやすくなり、従って酒を飲む癖を普及させたことは争われないが、是とても時を構わずに飲むという慣習が、すでに公認せられていたからできたことで、少なくとも第二次の新たな原因というに過ぎない。酒屋は言わばこの人間の弱点に乗じて、起こりまた栄えた業務であったのである。
しかも昔の純然たる自給経済の時代には、飲もうにもその酒を得る道が、無かったということがまた事実である。酒を飲むべき機会は限定せられ、且つはやくから予期せられていた。大体に神に酒を供える日と、同じであったと謂って誤りがない。そうして日を算[かぞ]えてちょうどその日に飲めるように、めいめいの家で支度するのだから、消費が自由でなかったのは勿論、そう佳い酒の飲めるはずもなかった。それが人さえ出せば町方から、いつでも菰[こも]かぶりが取寄せられるようになって、始めて今日のような酒宴が、随時に開かれることになったのである。酒の普及がこの四斗樽[しとだる]というものの発明によって、たちまち容易になったことは争われない。しかもその桶屋の業、すなわち竹をたがにして大きな桶や樽を結ぶ技術は、近世に入るまでは都会でも知られていなかった。
酒はそれ以前には酒甕[さかがめ]の中で造っていた。『更級日記』の文にも見えているように、その甕は土中に作り据えてあって、酒を運ぶにはさらに小さな甕を用いていた。村で酒を造るには村桶があり、また贈答用の角樽もできていたようだが、いずれも檜の板を曲げて綴じた曲げ物だから、そう大きな入れ物にならなかったかと思われる。四国・九州の多くの土地では、今でも祝宴の翌日または翌々日、手伝い人や家の者を集めて、慰労の飲食を供することを、「甕底飲み」とも「瓶こかし」とも謂っている。北国一帯ではまた是を残り酒とも呼んでいた。すなわちこの祝宴のために用意せられた酒は、この際に底まで飲み尽して瓶を転がすというので、この日が過ぎるとあとはまた永く酒無しの日が続いたものと思われる。ただしそういう中でも正月の酒、神々に御供え申しまたは年頭の賀客と汲みかわす酒だけは、その入用が前もって知れているのだから、或いは秋の収穫後の祭礼の酒を、別に一瓶だけ余分に造って、残して置いたかと思われて、暮の支度のいろいろとある中にも、正月酒を仕込んでいたらしい形跡は無い。いつ頃からそのような便法が始まったかは知らぬが、とにかくに酒の貯蔵ということは、是が動機となってぽつぽつと始まってきたようである。

以前の正月の祝賀の歌には、しばしば「古酒の香[か]」を悦ぶ文句があった。是を正月の楽しみの一つに、算[かぞ]えていたことだけは確かである。貯蔵が酒造りの技術の改良のもとになったことも想像に難くない。少なくともその貯蔵の酒には品質の高下[こうげ]があって、奈良とか河内の天野とか、佳い酒がてきると、その評判が高くなり、人がその名を聴いて飲んでみたがるようになった。是が銘酒という語の起源である。酒は本来は女の造るものときまっていたのに、こういう銘酒の産地が、多くは婦人と縁のない寺方であったということは、ちょっと珍しい現象である。足利後期の京都人の日記などを見ると、別に「ゐなか」という酒が地方から、ぽつぽつと献上せられ且つ賞玩せられている。田舎[いなか]と謂っても勿論富豪の家であろうが、こうして自慢の手造りを、京まで持参しようとするのだから、もうこの頃には貯蔵の風が弘く行き渡り、或る家には飲まずに辛抱している酒というものが有ったのである。しかしそういう酒の自由になる人は、おそらくは有力者だけに限られていたことであろう。事実また尋常の日本人は、秋の穀物の特に豊かなる季節に、祭礼とか秋忘れの寄合いを目あてに、大いに飲むつもりでめいめいの酒を造ったので、貯えて置けるようならよいのだが、大抵は集まって皆飲んでしまったらしい。
秋になるより里の酒桶
という『★野集[あらのしゆう]』の附句もある。或いはまた、
ふつふつなるを覗く甘酒
という『続猿簑』の句などもあって、まだこの頃までは甘酒の醗酵して酒になる日を、楽しみにして待っている人も多かった。それが一年にまたは一生涯に、数えるほどしかない好い日であったことは言うまでもない。だからいよいよその日が来たとなると、いずれもはめをはずして酔い倒れてしまったのである。

 


それからまた一つの制限は、昔は酒は必ず集まって飲むものときまっていた。手酌で一人ちびりちびりなどということは、あの時代の者には考えられぬことであったのみならず、今でも久しぶりの人の顔を見ると酒を思い、または初対面のお近づきというと飲ませずにはおられぬのは、ともに無意識なる昔風の継続であった。こういう共同の飲食がすなわち酒盛りで、モルはモラツという語の自動形、一つの器の物を他人とともにすることであったかと思われる。亭主役のちゃんとある場合は勿論、各人出し合いの飲立て講であっても、思う存分に飲んで酔わないと、この酒盛りの目的を達したことにはならなかった。すなわちよその民族において血を啜って兄弟の誼[よしみ]を結ぶというなどと同じ系統の、至って重要な社交の方式であり、したかってまたいろいろのむつかしい作法を必要としていたのである。
婚礼とか旅立ち旅帰りの祝宴とかに、今でもまだ厳重にその古い作法を守っている土地はいくらもある。我々の毎日の飲み方と最もちがう点は、簡単にいうならば酒盃のうんと大きかったことである。その大盃が三つ組五つ組になっていたのは、つまりはその一々の同じ盃で、一座の人が順々に飲みまわすためで、三つ組の一巡が三献[さんこん]、これを三回くり返すのが三三九度で、もとは決して夫婦の盃には限っていなかった。大きな一座になると盃のまわってくるのを待っているのは容易なことではない。最初は順流れまたは御通しとも称して、正座から左右へ互いちがいに下って行き、後には登り盃とも上げ酌などとも謂って、末座の人を始めにして、上へ向かってまわるようにして変化を求めたが、いずれにしてもその大盃のくるまでの間、上戸は咽を鳴らし唾を呑んで、待遠しがっていたことは同じである。この一定数の巡盃が終ると、是でまず本式の酒盛りは完成したのであるが、弱い人ならそれで参ってしまうとともに、こんなことでは足りない人も中には居る。それらの酒豪連をも十分に酔わせるために、後にはいろいろの習慣が始まった。お肴と称して歌をうたい舞を舞わせ、または意外な引出物を贈ることを言明して、その★奮によってもう一杯飲み乾させるなどということもあった。亭主方は勿論強いるのをもって款待の表示としておって、勧め方が下手だと客が不満を抱く。だから接伴役にはできるだけ大酒飲みが選抜せられ、彼らの技能が高く評価せられる。酒が強くて話の面白い男が客の前へ出て、「おあえ」と称してそこにもここにも、小規模な飲み合いが始まる。或いは客どうしで「せり盃」などと称して、あなたが飲むなら私も飲むという申し合わせの競技をしたり、または「かみなり盃」と謂ってどこに落ちるかわからぬという盃を持ちまわって、その実予て知っている飲み手に持って行ったり、また或いは「思いざし」などと謂って、やや遠慮をしている人に飲ませようとしたりした。酒宴の席の賑かなのを脇で聴いていると、大抵はこんなつまらぬ押問答ばかりであった。しかしそうして見たところでなお迷惑する人が、飲みたい方にもまた飲みたくない方の人にもできるので、これを今一段と自由にするために、いつの頃よりか「めいめい盃」というものが発明せられた。是は一つずつ離したやや小さな塗盃で、始めから客人の御膳ごとに附いている。これを用いるようになってから、組の大盃のまわってくるのを待たずに、向こうもこちらも一度に飲むことがやっとできたのである。今日の小さな白い瀬戸物のチョクなるものは、つまりこの「めいめい盃」のさらに進化したもので、勿論二百年前の酒飲みたちの、夢にも想像しなかった便利な器だが、一方そのために酒の飲み方が、非常に昔とちがった、だらしのないものになった。酒を飲む者の目的または動機が、おそらくこの陶器の酒盃の出現を境として、一変してしまったろうと思われる。徳利は或いは独立して、酒を温める用途にもう少し早くから行われていたかも知れぬが、少なくとも盃洗などというものはその前には有り得なかった。是で盃を濯[すす]ぐことをアラタメルと謂ったのも、もとは別の盃にするという意味で『金色夜叉』の赤樫満枝という婦人などが、「改めてございませんよ」と謂って、盃を貫一にさしたのを見ても判るように、本来は同じ盃の中のものを、分ち飲む方が原則だったから改めなかった。それを今日は見事に飲み乾すのをアラタメルのだと思う者さえある。是ほどにもまず以前の仕来りを忘れてしまっているのである。

 


支那文人などには、独酌の趣を咏じた作品が古くからあったようだが、此方では今でも普通の人は酒に相手をほしがる。一人で飲むにも酌をする者を前に坐らせ、また時々はそれにも一杯飲ませようとする。そうして手酌でこそこそと飲んでいる者を、気の毒とも悪い癖とも思う人は多いのである。この原因は今ならばまだ尋ねてみることができる。現在は紳士でも屋台店の暖簾をかぶったことを、吹聴する者が少しずつできたが、つい近頃までは一杯酒をぐいと引掛けるなどは、人柄を重んずる者には到底できぬことであった。酒屋でも「居酒致し候[いざけいたしそうろう]」という店はきまっていて、そこへ立寄る者は、何年にも酒盛りの席などには列[つら]なることのできぬ人たち、たとえば掛り人とか奉公人とかいう晴れては飲めない者が、買っては帰らずにそこにいて飲んでしまうから居酒であった。是をデハイともテッパツともまたカクウチとも謂って、すべて照れ隠しの隠語のようなおかしな名で呼んでいる。しかもこういうのも酒を売る家が数多くなってから後のことで、以前はそんな機会も得られなかったのである。
ところがこの一杯酒のことを、今でも徳島県その他ではオゲンゾウという方言が残っていて、是によってほぼこの慣習の由来がわかる。ゲンゾウは漢字で書くと「見参」、すなわち「見えまいらす」であって、始めての、または改まった人に対面することを意味する。関東では聟[むこ]が始めて嫁の家を訪[と]い、または双方の身内が親類として近づきになる酒宴だけをゲンゾまたは一ゲンというが、一ゲンはすなわち第一回の見参ということで、婚礼の日に限るべき理由はない。現に関西では盆正月の藪入がゲンゾ、古い奉公人の旧主訪問がまたゲンゾである。是に敬語を冠[かぶ]せてオゲンゾウというのも、目上の人への対面のことでしかない。『狂言記』の中にも、「明日はゲンゾでござろう」というのが奉公人の地位のきまることを意味している。すなわち今日の御目見え以上に、いよいよ主従の契約をする式が見参であった。こういう場合には酒が与えられる。それも主人と酌みかわすのではなくて、一方が酌[しやく]をしてやってその家来だけに一杯飲ませるので、狂言では普通は扇を使い、何だか烏帽子櫃[えぼしびつ]の蓋のようなものを、顔に当てるのが飲む所作となっている。すなわちあの時代にも一人で飲むのは下人で、主人との献酬[けんしゆう]はなかったのである。それが後々は飲ませるかわりに酒手の銭をやることにもなったが、やはり古風な家では出入の者などに、一杯飲んで行くがいいと謂って、台所の端に腰を掛けて、親爺がお辞儀をしいしい一人で飲んでいる光景が今でも時折は見られる。大きな農家に手造りの酒があった時代には、是が男たちを働かせる主婦の有力な武器になっていた。東北ではヒヤケとも謂う小さな片手桶が、このためにできていた。是で酒瓶[さかがめ]から直接に濁ろく★なり稗酒[ひえざけ]なりをくんで、寒かったろうにと一ぱい引掛けて行くがよいと、特別に骨を折った者をいたわっていたのである。勿論対等の客人にはこのような失礼なことはできない。すなわち相手ないに独りで一杯を傾けるということは、ただ主人持ちばかりの、特権といえばまあ特権であった。

今日のいわゆる晩酌の起原も、是と同じであったことは疑いがない。この酒を岐阜県などではオチフレ、また九州の東半分でヤツガイともエイキとも謂っている。意味はまだはっきりせぬが、鹿児島・熊本等の諸県でダイヤメまたはダリヤミと謂っているのは、明らかに疲労を癒すということで、すなわち労働する者が慰労に飲まされる酒の意であった。東京ではまた是をオシキセとも謂っているが、シキセは元来奉公人に給する衣服のことである。堂々たる一家の旦那が、その御仕着せに有付くというのはおかしな話だが、起こりはまったく是もまた主婦のなさけで、働いたその日の恩賞という一種の戯語としか考えられない。主婦の方でもそう毎度相手と飲む酒盛りが家にあっても困るので、名義の穏当不穏当などは問わず、一人で飲んでくれることを喜んだのであろう。こういう有難くもない名を附けられて苦笑しながらも、なお晩飯には一本つけて貰って、頭を叩いて飲んでいたというのも、結局は酒があまりにうまく、かつて人々と集まって飲んだ味が忘れられなくて、何の祝賀でも記念でもなく、また嬉しくも悲しくもない日にも、飲みたくなるような習癖を生じたからで、一つにはまた買おうと思えば夜中にも、すぐに入用の量が得られるような、便利な世の中になったためでもある。神代の昔から、酒と名のつくものが日本に有ったからと言って、昔の人たちもこの通りに、女房の承認のもとにちょっとばかりの酒を、毎晩飲んでいたと思うと大まちがいである。


証拠を挙げることはやや困難になったが、中世以前の酒は今よりもずっとまずかったものと私たちは思っている。それを飲む目的は味よりも主として酔うため、むつかしい語で言うと、酒のもたらす異常心理を経験したいためで、神々にもこれをささげ、その氏子も一同でこれを飲んだのは、つまりこの陶然たる心境を共同したい望みからであった。今でも新しい人たちの交際に、飲んで一度は酔い狂ったうえでないと、心を許して談[かた]り合うことができぬような感じが、まだ相応に強く残っているのもその痕跡で、つまり我々はこの古風な感覚の片割れをもったままで、今日の新文化へ入ってきているのである。酒の濫用ということが有りとすれば、現在の過渡期が特にその弊害の起こりやすい時だと言い得る。すなわち我々は一方には古い名と約束に囚われつつ、他方には新しい交通経済の実情に押しまわされて、その中間の最も自分に都合のよい部分を流れているのである。両者新旧の関係は改めて静かに反省してみなければならぬと思う。
今度の大事変が起こってから、不思議に日本人の研究心と、発明力とは大飛躍をした。是までかつて考えなかった有形無形の問題が注意せられ、着々と新たな方策が立てられたことは、時過ぎて回顧すればいよいよ鮮明に、国民の智能の卓越していることを証拠立てていることと思う。今まで同胞がうっかりと看過していたことを、問題にしてみるには今ほどの好時期はない。独り歴史の学問だけが、いつまでも古い知識と元の方法とに、止まっていてよろしいという理由は有り得ない。我々は酒を飲む習慣の利弊に関しても、是非とも今と昔との事情の変化を知って、現在の状態が果して国の福祉と合致するか否かを、明らかに認識し得るようにしなければならぬ。それを各人が自由に判断するだけの歴史知識が、現在はまだ具[そな]わっておらぬとすれば、少なくとも求めたら得られる程度に、歴史の学問を推し進めなければならぬ。いつも民間の議論に揚蕩[ようとう]せられつつ、何らの自信も無く、可否を明弁することすらもできないのは、権能ある指導者の恥辱だと思う。