(巻三十三)曲水に相場をつかむ気合かな(大町敏夫)

(巻三十三)曲水に相場をつかむ気合かな(大町敏夫)

7月8日金曜日

午前は洗濯と窓拭きをいたす。窓拭きは空手キッドのようにスクワットを繰り返し膝が疲れた。歳だ。

午後は昼寝をして、3時半から散歩に出かけた。都住3を通ったがサンちゃんもフジちゃんも不在。新道の裏通りを亀信のところまで歩き、そこから先は新道を歩いて駅前のマルナカまで行った。客は私だけ。酸っぱいものをアテに呑もうとサメの軟骨と魚卵を南高梅で和えた物で白を飲んだ。これでやめておけばよいところをさらに、茄子とイカのマリネとかいうのでもう一杯いたして1700円とあいなった。

来た道を戻って都住3に寄ったらサンちゃんとフジちゃんがいてサンちゃんが上手にスナックを食べられるようになってきた。猫は可愛い。

生協に寄り米二キロと自分用に塩飴を買って帰宅した。

願い事-電球が切れるが如くで細君より先にお願い致します。怖くない、怖くない。歳を取れば体力ほか衰えるばかりだが、よいこともある。先が短いということだ。三十歳なら50年は生きなくてはならず、それに縛られて今を生きる。あたしゃ長くてもあと5年くらいだろう。死ぬことだけを考えて生きていればよいのだから、考えようによっては気楽なものだ。惨めな死が待っているかもしれないが、人生はあらかた終った。死ぬということは脳が死ぬということだが、先に脳だけ死んでもらいましょうというのが、本日掲載した森於兎氏の『耄碌寸前』の言わんとするところだろう。わたしゃポックリがいいが、死ぬ瞬間を意識することなく死ぬという点に関しては同じだろう。とにかく、もういいや。

「耄碌寸前 - 森於菟」

私はある種の老人のように青年たちから理解されようとも思わない。また青年たちに人生教訓をさずけようとも思わない。ただ人生を茫漠たる一場の夢と観じて死にたいのだ。そして人生を模糊たる霞の中にぼかし去るには耄碌状態が一番よい。というのはあまりにも意識化され、輪郭の明らかすぎる人生は死を迎えるにふさわしくない。活動的な大脳が生み出す鮮烈な意識の中に突如として訪れる死はあまりにも唐突すぎ、悲惨である。そこには人を恐怖におとしいれる深淵と断絶とがある。人は完全なる暗闇に入る前に薄明の中に身をおく必要があるのだ。

(参考随筆)

https://nprtheeconomistworld.hatenablog.com/entry/2019/12/07/083541