「老後や余生の一日ではなく、「自分」の一日 - 勢古浩爾」古希のリアルから

 

「老後や余生の一日ではなく、「自分」の一日 - 勢古浩爾」古希のリアルから

若き日から定年まで、価値あることだと思っていたさまざまなものが、次々にパチンパチンと破裂していくようである。なにをそんなに必死になっていたのだと、ほとんどのものがばかばかしくなる。会社の業績など、その最たるものである。だが破裂したのは、退職して社会から降りたわたしの内部だけで、社会ではそれらのバブル的価値はいまでも膨らむ一方である。バブル景気は実際に破裂したが、こっちのバブル的価値は衰えない。それどころか、サバイバル的様相を呈してきた。その上に日本社会が成立しているのである。
もう見栄や世間体にしばられるということはない。他人に好かれたいという気持ちもない。金には縛られようがない。あるだけでやっていくしかない。世間の流行には、昔から影響されなかった。興味のないものばかりが流行ったからである。これじゃあ「ひとり」になってしまうわけだ。人間関係に余計な気を使うこともなくなった。ふつうの礼儀を守って接するだけでいい。
わたしは、切れ者には憧れたが、叶わなかった。だから自分を、できる人間に見せようとしたことは、たぶんない。いい人間のように見せかけたことも、たぶんない。大物ぶったこともない(あったとしたら、ごめんなさい)。ないはずなのに、そういう態度が逆に、ある種の人には尊大に見えた、ということはあるかもしれない。わたしはたいてい人を責めない。黙っている。そういうところが、逆に、陰険に見えたのかもしれない。
まだ自分自身にたいする関心は失っていない。けれど、世界も自分も、あらゆる関係も、なるようになるし、なるようにしかならない、という意識は強くなっている。ある種の諦念かもしれない。といって、だからこそ一回限りの人生を精一杯楽しむのだ。そうでなければもったいないではないか、とは全然思わない。楽しかろうと、どうであろうと、熊本の佐々木君代おばあさんのように、自分を全うすればいいだけのことである。
余生という言葉がある。恰好をつけて「あとは余生みたいなもんよ」というやつもいる(いないか。実際に聞いたことはない)。「もういつ死んでもおかしくはない」の項でふれたように、もう八五パーセントの人生を生きたのだな、と思うと、残りの一五パーセントは余りもの、という気分になってしまうのも無理はないと思う。しかし燃えくすぶっているような時間をすごしてもしようがない。やはり、余りものの「人生」や「一日」などはいけない。食べ残しの弁当ではないのだ。いつまでも「いのちなりけり」の一日だ。
二〇一七年十月下旬、アインシュタインが東京滞在中に書いたというメモが、エルサレムのオークションで、約一億八千万円で落札された、というニュースが報じられた。アインシュタインは大正十一年(一九二二)に訪日。「日本に向かう船上でノーベル物理学賞の受賞通知を受けた」。メモ書きは「(アインシュタインが)帝国ホテルに滞在していた際、手紙を届けに来た日本人の配達人にチップの代わりとして手渡した」ものだという。

帝国ホテルの便箋に書かれたメモには、こう書かれている。「静かで質素な生活は、絶え間ない不安に縛られた成功の追求より多くの喜びをもたらす」(『毎日新聞』二〇一七・十・二十五夕刊)
アインシュタイン、四十三歳のときである。わたしはアインシュタインのことなど、ほとんどなにも知らないが、この言葉で一気に親近感を覚えた。とくに「静かで質素な生活」というのがいい。まさに「Plain living, High thinking」である。
世界的な理論物理学でさえも、そんなことを考えていたのか。老人のときの白髪で舌を出した写真しか知らないが、その当時の高齢で「静かで質素な生活」を望むのならわかる。四十三歳といえば、働き盛りの歳である。果たしてアインシュタインに「静かで質素な生活」は訪れたのだろうか。
わたしは「High thinking」の意味がよくわからないため、ずっと「Plain thinking」のままで、結局「Plain living, Plain thinking」である。考えてみれば、このほうがわたしには似合っている。居心地もいい。最近では、「Plain thinking」もなくなり、「Plain living」だけになったような気がする。
わたしに「老後」はない。なんだ「老後」って?「余生」もない。あっても、そんなことは考えない。しゃらくさいのだ。あるのは、ときには歳をとったなあと思うが、ほとんどのときは、老いたとも若いとも思わない。「自分」の一日だけである。
現在は、二〇一七年十一月十日の四時四十五分。さて、また午前五時のマクドナルドに行ってまいります。ごくごく小さな「旅」です。