「死を予感して(抜書) - 結城昌治」死もまた愉し から

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「死を予感して(抜書) - 結城昌治」死もまた愉し から

来し方の見わたすかぎりおぼろかな(結城昌治)

私は夏目漱石の研究家でも何でもありませんが、漱石のなかでは『吾輩は猫である』が一番の傑作だと思っています。最後は、来客が飲み残したビールを、猫が台所でぴちゃぴちゃ舐めているうちに酔っぱらって、水瓶に落ちてしまう。大きな水瓶で、いくら足掻いてもはい上がれない。当然、苦しいわけですけれど、そのうちに、瓶から出られないとわかっているのに、出ようとすりから苦しいんだと思いはじめる。もう、やめよう、勝手にするがいい、と抵抗をあきらめると、だんだん楽になってくる。「吾輩は死ぬ。死んで此太平を得る。太平は死ななければ得られぬ」......。念仏を唱えて「有難い々々々」で小説は終わっています。
願望みたいなものですが、私は死ぬときは、この猫みたいに死にたいと思っています。あるところまできたら、悪あがきをしない。そうすれば、楽になるんじゃないか-。あまり偉そうなことを言える柄ではありませんけれど、死ぬことを見きわめて生きていれば、それができるような気がします。
漱石の猫は南無阿弥陀仏と念仏を唱えますが、べつに信仰心があったわけじゃありません。ただ形をつけただけのものです。落語でも芝居でも、だれかが死ぬときは、何か念仏を唱えなければ死ねないようなところがありますから。
夏目漱石にも信仰心はなかったと思いますが、猫は、これで楽になると思って、「ありがたい、ありがたい」と言いながら死ぬわけです。晩年の漱石胃潰瘍だとか、糖尿病だとか、いろいろな病気を抱えて苦しんだ。死ぬときも、主治医に向かって「早くここへ水をぶっかけてくれ、死ぬと困るから」と言っています。胸のあたりが苦しかったらしいんです。それで、看護婦に水を吹き掛けてもらったら、「ありがとう」と言って、まるで猫と同じように死んじゃうんです。
「死ぬと困る」と言ったのは、命が惜しいという意味ではないと思います。朝日新聞に最後の作品になった『明暗』を連載中で、まもなく終わる段階でしたから、その結末をつけないうちに、死ぬのは困る、と。これは、作家だから当然ですね。その裏を返してみると、結末をつければ、死んでもいいんだ、と......。そこまで言い切れるかどうかわかりませんが、そういう意味にも受けとれます。
だから、死ぬということを、それほど深刻な問題としてとらえていません。漱石の享年は四十九歳です。いまなら早すぎる死と言われるでしょうけれど、当時は「人生五十年」の時代です。織田信長のころから、何百年も「人生五十年」でした。持病に苦しんでいた漱石は、おそらく、死というものをきちんと見つめていたにちがいありません。

もうひとり、松尾芭蕉のことも頭に浮かんできます。芭蕉元禄時代俳人ですが、現代の俳壇のみならず、日本人の人生観にも大きな影響を与えてます。芭蕉にも、それほど信仰心があったとは思えない。禅宗のお寺に参禅したことはありますけれども、徳川時代儒教の時代で、むしろ孔子孟子老子などの影響を受けたようです。しかし、結局は、いっさいの合理的なものと絶縁して、俳句の道一筋に歩いた。人生を生から死に至る旅と見做[みな]し、それを俳句に託して、生涯、旅をした人ですから、最期も旅先でした。
生涯最後の一句が有名な「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」です。この句を口述して、「病中吟」と前書させています。辞世の句にするだけの自信がなかったのかもしれません。
最後の句をつくってから、四、五日は生きていたらしいんですが、「ただ生前の俳諧を忘れんとのみ思う」と言って、もう自分では句をつくらない。ここで、けりをつけてしまったんですね。だから、「枯野」の句を辞世とは言っていないけれど、やはり辞世の句だろうと思われます。臨終の場には十人ぐらいの弟子が集まっています。その門人たちに句をつくらせて、これはうまい、これはだめだ、などと批評しているうちに、ふっと息を引き取ってしまう。このとき芭蕉は五十歳です。ですから、当時の社会通念から言えば、天寿を全うしたことになるかもしれません。
芭蕉は旅の人でした。妻もいなければ、子どももいない。肩書も何もない。ただ俳諧師というだけです。江戸にいれば、実入りもよかったにちがいないけれど、その江戸を捨てて旅に出てしまう。ですから、死ぬことをきちんと見つめて-あるいは見きわめて生きた人だろうと思います。
漱石芭蕉が、とりわけ立派だったと言うつもりはありません。ふたりに共通しているのは、本当に悟りきっていたかどうかは疑問ですが、すくなくとも、死が迫っているのを知りながら、あわてふためいたようすがなかったということてす。われわれ凡人は、このふたりみたいにはいかないでしょうが、死に向かって、いかに処すべきかを考えていくのも、無駄ではないだろうと思います。
伊勢物語』の終わりに近く、在原業平とおぼしきプレーボーイの主人公が「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」という辞世歌を詠んでいます。辞世歌としては、文句のつけようがありませんが、本当に業平がつくったかどうか、真偽のほどは不明です。辞世の歌にしろ、句にしろ、いざつくろうとすると、さっきの芭蕉の例ではありませんが、そう簡単ではないようです。これは技術的な問題ではなく、人間、なかなかそこまで悟りきるのはむずかしいということでしょう。
私の知るかぎり、いちばん悟っているのは石川五右衛門です。京の三条河原で釜茹でになりながら、「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」と辞世の歌をつくった。もっとも、これは芝居の作り事ですね。釜茹でになるのに、こんな歌をつくっている暇はないですから。
人間が死を意識するというのは、どういうことなのか、私には、いまでもわかっちゃいません。わかろうとすることじたいが不遜とも言えるのですが、若いころにくらべれば、すこしは死にたいする処し方がわかってきたような気がします。