2/2「ボケるよりは安楽死がしたい - 新藤兼人」新潮文庫 ボケ老人の孤独な散歩 から

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2/2「ボケるよりは安楽死がしたい - 新藤兼人新潮文庫 ボケ老人の孤独な散歩 から

三日ばかりして石段をのぼると、桜の木の元には段ボールの箱が猫ハウスとして置いてあり、その前に小皿が一ヶあった。だれかが食べものを与えたらしい。猫はと見ると段ボールのハウスにはいっていて、近づくとゆっくり体を起こし、外に出てきて、きちんと肢をそろえて坐り、大欠伸をした。すずしい目には目脂[めやに]が浮いていた。人間でいうなら七十を越えた老女であろうか。
また三日して石段をのぼると、ビニールの白い傘(五百円で買える)が段ボールハウスの上にさしかけてあった。雨が降った日があったのだ。猫はハウスのなかに丸くうずくまって安眠をむさぼっていた。
さらにまた三日目。一人の老人が段ボールの中に敷いてあるタオルを出してゴミを払い、ハウスを掃除していた。スーツにネクタイ、人品いやしからざる老紳士である。猫は少し離れたところに席をはずして、例によって行儀よく肢をそろえ、目脂のたまった目を閉じたり開いたりしている。老紳士は、作業を了えて、じろり一瞥を残し悠然と立ち去った。
さらに三日ののち、きょうはどうしているかと石段をのぼると、白い傘はひっくり返り、猫の姿は見当らない、皿の上にはウインナーソーセージが一本のっていた。わが輩は白い傘をもとの場所に直して、気もちを残して去ったのだが、それからもう彼女の姿を見ないのだ。
猫は死ぬとき人に姿を見せないという。ひとり安楽死の道を選ぶのだ。部屋に出入りする猫たちも、あるぷっつりこなくなる。自分の死場所に行くのだ。その行動を見定めたいと思ったが見ることはできない。猫の神秘だ。部屋で寝転んでいた老猫が、ゆっくりとした足どりで出て行って、以来姿を見せない。ゆっくりとしたその足どりが目のなかに残っている。
K氏は、植物人間になって、四年になる。ある日職場の洗面所で気分が悪くなり、くずれて意識を失い、病院にかつぎこまれたままである。口がきけない、話しても何の反応もない、だが目をぱっちりと開いている。いわゆる脳溢血というやつで脳の血管が切れたのだ。当初医者は半月ももたないだろうといったが、一年たち二年たち四年たっても、K氏の体は生きている。夫人は回復を祈って、なんとしても生かしたいと願い、医者も夫人の熱意に応えるかのように最善を尽し、その結果、K氏の体力は倒れたときの状態を維持している。食べることは出来ないから薬剤による栄養の補給である。近代医学の勝利だ。
吉村公三郎監督は小津安二郎監督の母堂の通夜に行って遅く帰り、明け方便所へ立って倒れたが、見事に回復し、アタマはボケるどころかまえよりはっきりしたようだ。シナリオライター長瀬喜伴は、箱根湯本の定宿清光園でシナリオを書いている最中倒れ、一週間こんこんと眠って死んだ。吉村監督は血管の切れたところが浅いから助かり、長瀬君は深かったから助からなかった、というのは両人を診た医者の説明である。

助かるか助からないか、どちらにしても結果がはっきりしているからいいが、植物人間になった場合、問題が残る。K氏の場合、医者がはっきり回復の見込みがないといっている。それなのにK氏は体力だけは丈夫に生きているのだ。
回復の見込みのないのをなおかつ生かしておきたい、と願うのは妻の愛である。しかしK氏の意識は死んでいるのだから妻の愛を感じることはできない。子どもたちはどうか。子どもたちは親にとって代わるべく生まれたという潜在意識があるから、意味なく生きているのは無駄だと思う。さらに、K氏をとり巻く人たち、両親、きょうだい、妻の親たち、客観者の目は冷静だ。
だれも、安楽死、というコトバはノドまではきているが、口には出ない。このコトバを口の外へ出すのは怖ろしいのだ。しかし会社から支給されていた何割減かの給料の期限がきれると、問題は切実となる。
K氏は、いぜんぱっちりと目を開いたままだ。ドアを開けてはいると、まともにその目に出会い、急いで目をそむける。心の中を見透かされたのではないかと。
しかし、植物人間は、目をひらいて見ていても感じないのだ。だが、もし、感じていて、表現ができないのだとしたら、さぞもどかしい思いをしていることだろう。家族の困惑を見ているのだ。妻の必死の看病を知っている。このまま生きていても仕方がない、いいかげんに始末をつけてくれ、おれは植物になったんだから人間ではないんだ、おまえたちの肩の荷を下ろしてあげたい。
おまえはどうなんだ、シンドー!人のことだと思ってぺらぺら喋りすぎちゃいませんか。お前も間もなくボケて植物人間になるんだぞ。え、覚悟のほどはいいのか。安楽死をお願いします、と書き置きでも用意したほうがいいんじゃないか。どうなんだ。