「動物と人間の「死」- 野坂昭如」吾輩は猫が好き から

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「動物と人間の「死」- 野坂昭如」吾輩は猫が好き から

家の近くの駅前に、モデルハウスの展示場がある。入りこんで、詳しく検分したわけじゃないが、それぞれ戦前の水準で考えると、立派なお屋敷である。円大国、繁栄を謳歌しながら、大都市の住宅事情はこの五十年間ずっと悪いといわれつづけて来たが、ぼくの記憶でいうと、空襲の前の方が、一戸当り住いの広さは今よりせまかったと思う。ただし道具がすくなかったせいか、人間のつき合いがやさしかったためか、酔っ払った客を泊める、居候を置くことができた。
この住宅展示場に十数匹の猫が棲みついている。展示場に人影は余りないが、駅のそばだから、その入口のあたり通行人は多く、あたりはまた商店街、猫はここにひっそりとかたまって、人間のお情けを待つ。昼頃、ホカ弁をつかう道路工事関係者が、残ったものを与え、女学生が菓子パンをやり、パチンコ屋から出て来た、みるからに失業者がミルクを、備えられている水の容器に満たす。五、六人たむろされてたら、つい遠まわりしたくなる。異様な風態の若者たちが、猫に名前をつけていて、呼び立てながら、スナック菓子を手で食べさせている。
いずれもよく肥っていて、由緒正しい血統の猫も二、三匹、夜はきっと、展示住宅の庇[ひさし]の陰にでも過ごすのだろう。
チャーリーを拾って来て以後、これ以上、動物愛護の気持ちに忠実たるゆとりはないのだが、気になって、路上の猫をつい眼で追う。首輪をしていると、よかったなと思い、妙にたくましく太々しい野良を見れば、たくましく生きろとエールを送り、いつも同じ場所で陽なたぼっこの老猫には、ついおのが先き行きを重ねたりして、ぼくの散歩のナワバリ内に、数十匹はいる。路上で動物の死体を見ることはまずない。春先き、轢き潰されたガマ蛙、雨で落ちたらしい雀、94年の夏は、暑さでやられたのか鳩が死んでいた、神田川の鯉も、よく浅瀬に骸をさらし、横たわった姿は、ずい分大きい。
あたりの道は、元畦道みたいなもので狭いし、くねり曲っているから、車はスピードを出せない。多分そのせいで、左右確かめもせず、横切る猫は多いが、無惨なことにはならない。もっとも、初めて飼った猫ダダの連れ合い、アンジュは、わが家の門の前でハネられたが、外傷はいっさい無かった。
銀座で、野良猫に餌をやりつづけている能楽堂主人飯島美奈子さんの話によると、やはり生活環境がきびしいから、飼猫より寿命は短いそうだが、彼等は、死を迎える時、やはり姿を隠すのだろうか。
人間は、突如、「死」に目覚めたと、いうか、意識しはじめたと申すべきか、書店でながめれば、「死」からみの本が夥[おびただ]しく並んでいる。環境の整備により弱い者が死ななくなり、核家族で、死者を身近かにすることが少なく、「死」といえば事故の当節、しかし人間、いつかは死ぬ。ぼくの年頃だと、いろんな死を見て来たから、いちおう先き行きについてジタバタもしないが、いわゆる団塊の世代の諸氏、五十近くなってにわかに、いくら長寿社会といっても、自らの果てに思いをいたし、「死」について手さぐりしはじめたのだ。
しかし、動物を身近かにしていると、死はまことに自然、ことさら悟らなくっても、「帰するが如きもの」と、少し判る。幼いうちに、かわいがっていた動物の生と死に立ち合えば、百、千のハウトゥデス本を読むより、素直に、死を考える下地が培われる。
そもそも動物、といっても、犬、猫、コノハズク、魚類しか知らないが、彼等は、体の具合が悪ければ、物陰に身をひそませ、何も食べずにじっとしている。天命つきれば、まさに睡るが如く死ぬ。彼等の、断末魔のあがきなど知らない。コリーのダダは十四歳で、人間でいう傾眠状態となり、一声、大きくうなり、二、三度、荒野を疾走するような、激しい脚の動きをみせて、息を引き取った、臨終に際し、動いたのはダダだけ。ブルドックのオスカルは、内臓不全で腹水が溜ったから、抜いてやり、安らかに死んだ。他は、ほぼ寿命とみなした時、医者に診せなかった。
人と動物のつき合いはそれぞれだから、ぼくのことごとしくいうことじゃないが、近頃、猫の病巣を手術、犬に抗癌物質を射ち、苛立つ生物に、精神安定剤を与えたりする。
人間だって、以前はあまり無理しないで、寿命に逆らわず、死んでいった。当時、人間もそんなには、末期の苦しみを味わわなくてすんだのではないかと思う。科学の進歩で、難病が治るのはけっこう、夭折が少なくなって、親は幸せに違いない。いや、人間のことはともかく、人間が飼っている動物には、病気感染の予防とか、体の内外にとりつく寄生虫の駆除くらいでとどめ、後は、それぞれに備わっている自然治癒力にゆだねた方がいいのではないか。
少なくとも彼等の死に方をみていると、人間と動物の違いは、人間が言葉や道具を持つ、意味のない殺し合いをするというようなことより、さらに、「死」とのつき合い方にあるような気がする。