「球場の雰囲気 - 池澤夏樹」読書癖 から

 

「球場の雰囲気 - 池澤夏樹」読書癖 から

テレビが野球を変えたという説は正しい。たしかに中継のおかげで野球人口は格段に増えたし、球場に足を運ぶ人も多くなった。その一方で野球そのものがテレビっぽくなった。
テレビ野球の特徴は、第一にボールを映して選手を映さないこと。テレビの狭い画面には広い外野の隅まで入らない。テレビというのは(ドラマの場合もそうだが)もともとクローズアップは得意でも、後ろへ引いて全景を見せるということが不得意なメディアだ。だから極端な話、ボールさえ映っていれば試合の進行はわかるという理屈に頼ってズームを乱用する。バントのかまえに対してショートがどう待機しているかは見せてくれない。
第二の特徴は、なにかと監督の立場から見せたがること。これは日本式管理野球の欠点がそのまま出ているのだろう。見る者の方に、もしも自分が監督だったらという思いが強すぎるのだ。野球体験とはボールに触れる喜びだから、草野球ならピッチャーをやりたいとは思っても監督を志願はしない。しかし、テレビは、特に解説者は、ひたすら監督の立場に固執する。サラリーマンの管理職願望がかなしく出てくる。
などと愚痴を言いながらテレビを見ても、なかなか球場に行く暇はない。チームのファンや選手のファンであると同時に、球場の雰囲気のファンになるというのが、正しい野球の見方かもしれない。
それを味わうことができる小説があって、先日ずいぶん楽しんで読んだ。W・P・キンセラというカナダ人の書いた「アイオワ野球連盟」(文藝春秋)。はじめから終わりまで野球がらみの話で、それももっぱら観客席でなくグラウンドの視点で書かれている。野球場の空気は濃厚にただよっている。
それだけではない。これはアメリカ人の好きな大袈裟なほら話(トールテイルという)や、大胆な幻想小説の側面もあって、小説としてもうまく出来ている。過去にアマチュアのオールスターとプロの球団の幻の試合があって、主人公はその謎を追ってゆくうちにタイム・スリップして実際にその試合を体験することになる。球場には偉大なインディアンの戦士の亡霊が出没し、話はとんでもない方へ発展する。
冬の間に読んでおくと、来シーズンは少し広いグラウンドに立った選手の視点から、テレビが見られるようになるかもしれない。