「プロ野球にケジメはいらない - 天野祐吉」ちくま文庫 バカだなア から

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プロ野球にケジメはいらない - 天野祐吉ちくま文庫 バカだなア から

「野球の空間は外野の向こうに無限に開かれている」と、むかし、江藤文夫さんに聞いたことがある。草野球をしたことのある人なら、そう言われればその通りだと、すぐに納得するに違いない。草野球の球場では、たとえライトの向こうは川だったり畑だったり、時にはトタン屋根の工場だったり洗濯物の干してある人家だったりするけれど、実際にはどこまでオシマイという区切りがあるわけではない。無限のかなたに続いているのだ。
その点、ちゃんとした球場の場合には外野席というものがあって、空間は一応閉じているように見える。が、あれはああしないとシマリがないし、通行人がゾロゾロ入ってきてしまうオソレがあるので、ああなっているだけの話だ。つまり、外野席というのはもともと虚構のものであり、ホントは存在しないものなのであって、そうでなければ外野席に飛びこんだ打球はファウルということになるだろうし、場外ホーマーなんて打った奴は「スミマセン」と頭をかきながら、自分でタマを拾いに行かなければならなくなってしまうはずである。
ぼくの知る限りで言えば、こんなスポーツは野球しかない。サッカーもテニスもバレーボールも、ぼくらが日ごろ目にするスポーツは、どれも空間がちゃんと閉じている。ゴルフは一見開けているように見えるけれど、あれだって野球のようにボールをひたすら遠くにかっとばす奴がエライわけではなく、それなりにちゃんと空間は閉じているのだ。
いまさらそんなわかり切ったことを、と言う人もいるだろうが、外野席のある球場で野球ばかり見ていると、このわかりきった事実をつい忘れてしまうことがある。たとえば、ライト線いっぱいに入った鋭い打球を見ると、「あ、二塁打だ!」なんて反射的に思ってしまうのがその例で、あれはもし外野席がなければ、「タマは転々、水道橋の改札口を抜けて神保町方面に向かっています!」ということになり、通行人が拾って好返球でもしない限りは、ホームランになるのは確実だろう。
バカなことを、といってはいけない。これが野球の面白さの本質の一つなのであって、この際ぼくとしては、立派な球場の外野席はすべて宙づりにして、下をゴロが通り抜けるようにしてもらいたいと、切実に願ってやまない。それが通行人に危険だというなら、せめて外野席の下をくぐり抜けた先に茂みを作って、飛び込んだボールを外野手に探させるような仕掛けにして欲しいと思う。



空間だけでなく、野球では時間もまた閉じていない。つまり野球というのは、人生のようにとことんルーズなスポーツであり、そのいいかげんさが面白いところであるのに、何事にもケジメをつけたがる人間は野球場に外野席を作り、さらに几帳面な日本人は“時間切れ”というヘンチクリンな制度まで考え出してしまった。野球は九回と決めたのは球界の知恵として一応許せるけれど、延長の場合は何時間で打ち切るなんてことを言うのは、野球の本質にまったく反している。野球は人生のように、時に劇的に、時にだらだらと進むところが独特の面白さなのであって、アメリカのように勝負がつかなければ、翌朝まででもつづけるというのが正しいあり方なのだ。
ついでに言うと、ゲームの進行をスピードアップして試合時間を短縮しようという動きも、ぼくには気に入らない。そのホコ先はもっぱら投手の投球間隔に向けられているようだが、一球を投げるに投手が一時間くらい長考したって一向にかまわないし、むしろそのほうが面白いんじゃないか、とぼくは思う。阪急の山田がマウンドの上で一時間も考えつづけ、テレビ中継の間についに一球しか投げなかったなんていう図は、考えただけでもゾクゾクしてくる。
それがダメなら、せめて将棋のように投手の持ち時間というのを決めて、その配分は投手の自由にまかせたほうが、ぐんとかけひきの面白さが出てくるんじゃないかという気がする。それでダメなら一試合のイニング数を九回から七回にしたほうがまだマシというものであって、テレビ局の勝手な都合やお客の観賞能力の低さに合わせる必要はまったくない。とくにいけないのはテレビ局で、報道番組にせよスポーツ番組にせよ、テレビというものはもっとダラダラとやりつづけてくれてこそ、その本領が発揮されるのだ。
試合前のミーティングやシートノックの中継からはじまって、最後は試合後の両チームの監督の対談で終わる - そんなプロ野球のテレビ中継があったら、ぼくはそのスポンサーの商品を一生買い続けてあげてもいいと思う。



“フォア・ザ・チーム”という考え方もいやだ。「チームワークを強調するなは無能な連中の陰謀である」と言った人がいるけれど、そんな陰謀がいまやプロ野球の世界を暗黒大陸にしてしまっている。高校野球なら、まだワザが未熟な連中だから、チームワークに頼らざるをえないのもわかる。が、いいトシをした大人が、それも選ばれたプロが、大マジメに“フォア・ザ・チーム”なんて言っているのを聞くと、ぼくはもう全身にジンマシンが出てしまう。
その点、江夏は偉大だった。落合もいい。が、こういう連中は、とかく異端者扱いされ、ハミ出し者にされてしまう。いまの管理社会がコトナカレ社会になってしまったのは仕方がないとしても、プロ野球の世界までが堅気の衆の集まりになってしまう必要がどこにあるんだろう。堅気がいけないとは言わないが、現実の世界では見られなくなってしまったクセ者人間の魅力をイキイキとぼくたちに見せつづけてくれるのが、“夢を売る”プロ野球の、大切な仕事と言っていいんじゃないだろうか。
精神野球”とかいうシロモノも、この“フォア・ザ・チーム”の考えと、どこかでつながっている。だいたい柔道とか剣道みたいに“道”という言葉がくっついているスポーツがぼくは苦手なのだが、精神野球を説く人たちの顔を見ていると、どうもこの人たちは日本に“野球道”なるものを確立しようと、本気で考えているんじゃないだろうかと思えてくる。
ま、誰が何を考えようと人それぞれの自由だけれど、ぼくたちはドキドキしたいから野球を見るのであって、精神修養の一助に野球を参観しているわけではない。バカバカしくも丸坊主にさせられている高校野球の選手だって、甲子園でホームランを打ったあとのインタビューに「テレビに映っている自分の姿を意識しながらダイヤモンドを一周しました!」と、シャアシャアと答えられる時代になっているのだ。