「意識と神経細胞の維持 - 養老孟司」ちくま学芸文庫 唯脳論 から

 

「意識と神経細胞の維持 - 養老孟司ちくま学芸文庫 唯脳論 から

さて、ヒトのように、進化の過程で急速に脳が大きくなる場合には、右の問題が解決されなくてはならない。末梢、つまり知覚系で言えば、目や耳や鼻、あるいは皮膚の面積が大きくなるなら、神経細胞はむろん増加してよい。支配域が増えるからである。しかし、ヒトの場合には、そういうことが起こったわけではない。とすれば、脳はある意味では、自前で大きくなったわけで、それが可能であるためには、そこになにかのトリックがなければならない。右のような生物学的事実を認めるとすれば、脳が増大するためには、なんらかの意味で神経細胞の支配すべき「末梢」が大きくならなければ、神経細胞が「間引かれ」、神経細胞だけを勝手に増やしても、脳が大きくなるどころか、元のモクアミに戻るはずだからである。
ヒトの場合、ここにどんなトリックがあったのだろうか。そこでどうしても考えたくなるのが、「意識」の存在である。神経細胞が脳の中でできるだけおたがいどうしつながり合うことによって、おたがいに「末梢」あるいは「支配域」を増やす。それによって、おたがいを維持する。それを機能的に言うなら、たがいに入力を与え合う。それによってたがいの入力を増やす。
ヒトの場合、それに類したことが可能になったとすると、ここまで論じてきたような意識の発生が、なんとなくうなずける。思考というもの、いわゆる「頭を使う」という過程が、一般に自慰的な行為という印象を与えることが多いのは、こうしたことに関連しているのかもしれない。
筋の例で述べたように、入力が維持され、収縮活動が維持されていれば、人間が実験的に与える電気刺激によっても、筋は維持される。このような刺激は、生物にとっとなんの意味もない。自分の意志あるいは必要性で動かせない筋は、その生物にとっては無意味だからである。では、神経細胞うしの刺激し合いはどうか。同じように、ほとんど無意味だとも言えるし、人間社会にとってはきわめて意義深いとも言える。脳内の神経細胞が増加し、外部からの入力、あるいは直接の出力の「量」だけに依存するのではなく、脳の自前の、あるいは自慰的な活動に、神経細胞の維持が依存するようになった時、意識が発生したと考えてはいけないであろうか。
意識がそういうものだとすれば、その単純な生物学的意義とは、神経細胞の維持である。ゆえに、思考なり意識なり自我なり、そういうものが、ほとんどの場合、自慰的であってそれ以外のものではないことは、きわめて論理的だと言えるであろう。要するに、脳にとってみれば、自分自身が成立していくために必要なことを自分がやっているだけのことだからである。肝臓も腎臓も心臓も、同じようにその機能によって自分を維持しているはずだが、脳はその維持機能を「意識」と称して「意識している」だけのことである。
逆にそうしたものが、他人にとっても外界にとっても、直接にはほとんど意味を持たないこともまた当然である。よくしゃべる人は考えないと言うが、しゃべっている際に、喉頭筋や舌筋といった運動系への出力や、自分の言うことを自分の耳で聞いているという知覚系への大きな入力を考えれば、おしゃべりによって、自分の脳を維持していると思えばよろしい。これまた、典型的な脳の自慰行為なのである。必要なことを必要なようにやる、それが本来の動物の行為であるとすれば、意識もまたきわめて「動物的」、すなわち「人間的」現象だと言えよう。その意味では、意識はのうにおける生物学的必然であって、その意味では、だからどうだというものではない。それ以外に仕様のないものなのである。