「心身論と唯脳論(抜書) - 養老孟司」ちくま学芸文庫 唯脳論 から

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「心身論と唯脳論(抜書) - 養老孟司ちくま学芸文庫 唯脳論 から

心は脳から生じるか

「脳という物質から、心が出てくる。そんなバカな話はない。心というものは、もっと霊妙不可思議なものだ」。
哲学で言う心身論とは、もっとも素朴な形では、こうした疑問から発生したものではないか。そこに、神学上の見解が加わる。神学では、心つまり精神とは、ヒトと神だけの持ち物でなくてはならないのである。もっともこれは、キリスト教神学の話だから、「一寸の虫にも五分の魂」というわが国では、ピンと来ない面もあって当然かもしれない。脳から心が生じて、なにが悪い。こちらでは、そう思う人の方が、多かったりする可能性もある。しかし、ちょっと考えると、脳という物質塊から、心というわけのわからぬものが出てくるというのは、変と言えば変である。したがって、この点を問題として指摘する習性が、文科系の人たちには、昔からあった。
唯脳論は、この素朴な問題点について、それなりの解答を与える。脳と心の関係の問題、すなわち心身論とは、じつは構造と機能の関係に帰着する、ということである。この点を具体的に考えてみよう。脳と心の関係に対する疑問は、たとえば次のように表明されることが多い。
「脳という物質から、なぜ心が発生するのか。脳をバラバラにしていったとする。そのどこに『心』が含まれていると言うのか。徹頭徹尾物質である脳を分解したところで、そこに心が含まれるわけがない」。
これはよくある型の疑問だが、じつは問題の立て方が誤まっていると思う。誤まった疑問からは、正しい答が出ないのは当然である。次のような例を考えてみればいい。
循環系の基本をなすのは、心臓である。心臓が動きを止めれば、循環は止まる。では訊くが、心臓血管系を分解していくとする。いったい、そのどこから、「循環」が出てくるというのか。心臓や血管の構成要素のどこにも、循環は入っていない。心臓は解剖できる。循環は解剖できない。循環の解剖とは、要するに比喩にしかならない。なぜなら、心臓は「物」だが、循環は「機能」だからである。
たとえばこの例が、心と脳の関係の、一見矛盾する状態を説明する。脳はたしかに「物質的存在」である。それは「物」として取りだすことができ、したがって、その重量を測ることができる。ところが、心はじつは脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。したがって、心臓という「物」から、循環という「作用」ないし「機能」が出てこないように、「物」から「機能」である心が出てくるはずがない。言い換えれば、心臓血管系と循環系とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。それだけのことである。

心を脳の機能としてではなく、なにか特別なものと考える。それを暗黙の前提にすると、「脳をバラしていっても、心が出てこない」と騒ぐ結果になる。それは、おそらく間違いである。「出てこない」のは正しいのだが、その意味で言えば、循環だって、心臓から出てくるわけではない。心が脳からは出てこないという主張は、じつは「機能は構造からは出てこない」という主張なのである。それは、まさしくそのとおりである。ただし、それは、心に限った話ではない。心は特別なものだという意識があるから、心の場合に限って、心という「機能」が、脳という「構造」から出てこないと騒ぐ。
では、なぜヒトは、脳つまり「構造」と、心つまり「機能」とを、わざわざ分けて考えるのか。それは、われわれの脳が、そうした見方をとらざるを得ないように、構築されているからである。唯脳論は、そう答える。これは逃げ口上ではない。生物の器官について、構造と機能の別を立てるのは、ヒトの脳の特徴の一つである。それは、脳の構造を見ればすぐにわかる。その特徴がなぜ、どのようにして脳から生じるのかは、後の章で詳細に述べることにする。
腎臓が尿を作る。それは機能である。その過程は、物理的化学的に実証できる。しかし、神経細胞から心が生じるのを、物理や化学で実証できるか。そう頑張る人もあるかかもしれない。
これもおそらく、範疇の誤認である。心は「物」ではない。しかし、尿は「物」である。オシッコなら、検査のために採ることができる。しかし、心はそうはいかない。検査のために、心を一かけら採ってくれ。そんなことを誰が言うか。血液なら、検査のために採取できる。それなら、検査のために、「循環を一かけら」採ることができるか。
「物」か「物でない」かは、あんがい難しい。われわれが「物」であることを自明とするような「存在」が、かならずしも「物」でないことは、解剖学の用語を考えただけでもわかる。たとえば「口」や「肛門」は、その典型である。口はむしろ機能を示す用語であり、そのことは、「入口」「出口」といったことばに、よく示されている。「口は消化管の入口である」といった定義は、同語反復の典型である。また、解剖学実習で、「肛門だけ」切り取って重さを測れ、と言われた学生は、よく考えると、往生するであろう。よく考えない学生なら、周囲の皮膚を切り取ってくるであろうが、それはもちろん、ダメである。肛門に重量はない。なぜなら、肛門に「実体」はないからである。これはいわば、消化管の「出口」である。
これは決して、単なる語の定義の問題ではない。ある「ことば」と、その「ことば」に対応する「存在」を考えたとき、解剖学で利用する用語ですら、「対するもの」が、外界から、「実体」てして、かならずしも明確に取り出せるわけではない。それなら、その「対応するもの」は、いったいどこにあるのか。それは、われわれの脳内にある。外界から取り出せないとしたら、それしかないではないか。唯脳論では、あらゆる存在は、外界にあるか、あるいは脳内にあるとする。あるいは、多くの場合に、その両者にある。それは当たり前であろう。