「わがはからいにあらず - 五木寛之」ちくま文庫 自力と他力 から

 

「わがはからいにあらず - 五木寛之ちくま文庫 自力と他力 から

法然[ほうねん]、親鸞[しんらん]、蓮如[れんにょ]。何百年も昔のこの三人の宗教者によって、私は生きてゆく力をあたえられました。
法然の教えのなかで、私がもっとも感動するのは〈易行往生[いぎようおうじよう]〉ということです。そして親鸞の場合は〈自然法爾[じねんほうに]〉という言葉です。有名な〈悪人正機[あくにんしようき]〉説よりも、はるかに深いものを感じます。そして蓮如について言えば〈他力本願[たりきほんがん]〉というところに惹[ひ]きつけられる。ただ、この三つの言葉は、つまるところ同じひとつのことに違った光を当てているような気がしないでもありません。すべての背後には、
「わがはからいにあらず」
という他力の声が響いているように思えてならないからです。

〈易行往生〉というのは、私が勝手につくった表現です。一般には、〈易行念仏[いぎようねんぶつ]〉のほうが耳慣れた言葉だろうと思います。
〈易行〉というのは「やさしく行うこと」。つまり〈難行苦行[なんぎようくぎよう]〉の反対の意味です。〈往生〉といえば、世間では、死ぬこと、成仏すること、また極楽浄土[ごくらくじようど]へ迎えられて再生すること、というふうに考えられていますが、私は少し違った受け取りかたをしています。
私は〈往生〉を、「生きてゆく力をあたえられること」、「生きるよろこびを感じること」、また「苦しみや不安を抱えながらも、それに負けない真のやすらぎを覚えること」、というふうに自由に考えているのです。
法然はその〈往生〉を必死に求める人びとに、
「むずかしい学問や、苦しい修行はいらない。ただ一筋に仏を信じて念仏しなさい。それだけでよい。そうすれば必ず救われるのだから」
と説きました。 - ほかのことは、まあ、よい。とにかく「南無阿弥陀仏」と称[とな]えなさい、と。
法然は何の保証があって、人びとにそう語ったのでしょうか。一筋に仏を信じて念仏すれば往生できる、と言った。しかし、それが本当だと客観的に証明するものはどこにもありません。
にもかかわらず、法然が確信をもってそれを説いたのには、正当な理由があります。それは法然自身が〈念仏〉という〈易行〉によって、実際に救われた人間だったからです。むずかしい学問や苦しい修行を離れ、ただ素直に「南無阿弥陀仏」とつぶやくことで、彼は生きにくい世に悩み多き一個人として「生きる力」と「生きるよろこび」と「生きるやすらぎ」を確かにあたえられたと実感したにちがいありません。
だからこそ法然は〈易行往生〉を熱く語り、多くの人びとがそれに感動したのでしょう。若い親鸞も、そのようにして法然の言葉に感銘を受けたひとりでした。

 

親鸞は、やさしく往生する道がある、それはひたすら念仏することだ、と語った法然の言葉に帰依しつつ、さらに一歩、深いところへ歩きだします。
ただ口に念仏を称[とな]えることはやさしいが、赤子のように素直に、無心に〈帰依する〉ことは、そう簡単なことではない、と考えるのです。無心とは、これまで身につけてきたさまざまな知識や感覚を捨て去ることです。赤子のように素直になる、それはなかなかできることではない、と。
さらに〈帰依する〉とは、自分で決心し、努力してするのではなく、むしろおのずと「大きな力」によって、自然に引き寄せられることなのではあるまいか。「南無阿弥陀仏」と、念仏する。それは仏の前にぬかずいて、あなたを信じます、と誓うことではない。これまでの自分を捨てようとがんばることでもない。
そうせずにはいられない、というところへ人はおのずと引き寄せられるのだ、と考えるのです。
法然という偉いお坊さんがいるそうだ、という噂を人から聞く。それがすでに「見えない力」に働きかけられたことになる。噂を耳にしても、その後、なかなか自分で出かけていって話を聞く機会がない。ところが親しい友人か家族の誰かが、法然さまの話があるそうだからいっしょに行ってみないか、と誘ってくれた。それも「向こう側」からやってきた力である。
そして、法然の声を聞き、表情を見ると、なぜだかわからないけれど、その人の言葉に感動する。この人についていこう、と湧きあがってくる衝動をおさえることができない。それは自分がそうしようと努めているわけではなく、人の言葉に説得されたわけでもない。そういう機会に出くわしたということが「見えない光」に照らされたということではないでしょうか。
〈自力〉から〈他力〉への大きな転回がここに生まれます。
「〈自然〉というのは、自は、おのずからという。然というは、しからしむという言葉なり」
これは、親鸞の言葉の一節です。〈法爾〉とは、人に働きかける「見えない力」のことでしょう。私たちは自分で決意し、判断し、努力して何かを得たと思いこみがちですが、じつはそうではない。
この〈自然法爾〉は、〈他力本願〉という言葉と同じ真実を語っています。

 

蓮如は、大衆と専一[せんいつ]にかかわる状況のなかで、〈他力本願〉という物語を強く押しだしました。そこで描かれる阿弥陀仏のすがたは、苦しむ者、悩める者、世間から差別され、賤しまれる者、そして女子どもなどを、どうしても見捨てることができない仏の存在です。
その仏は人びとを救わずにはいられないという「悲しみの感情」を体いっぱいに背負い、地上の愚かな人間たちを置き去りにはできないとの思いを運命づけられた仏なのです。阿弥陀仏とは、人びととともに苦しみ、それらの人びとを救わずには自分もまた救われないという、むしろ悲しい仏、〈悲仏〉と言えるのかもしれません。
「あの声が聞こえないのか!あの仏の御手[みて]のあたたかさがわからないのか!」
と、蓮如は声をからして苦しむ人びとに叫びましたが、彼もまた、自ら決意してそうしているのではないという自覚があったはずです。
〈他力本願〉を説きつづける彼を動かしていたのは、まぎれもなく〈他力の風〉だったのです。
「なるようにしかならない」
と思い、さらに、
「しかし、おのずと必ずなるべきようになるのだ」
と、こころのなかでうなずきます。
そうすると、不思議な安心感がどこからともなく訪れてくるのを感じるのです。心臓が苦しいほど焦っていたのが、少しずつ落ち着いてくることもある。ジダバタしながら、そのジダバタにとことん打ちのめされることもない。
「わがはからいにあらず」
と、親鸞の肉声が聞こえてくるような気がするのです。それは、私の頭の奥にいつも響いていて、消えることはありません。