「『どくとるマンボウ医局記 - 北杜夫』の解説 - なだいなだ」どくとるマンボウ医局記 中公文庫

 

「『どくとるマンボウ医局記 - 北杜夫』の解説 - なだいなだ」どくとるマンボウ医局記 中公文庫

北杜夫慶應大学神経科医局にほぼ十年間助手として在籍していた。当時多くの大学では、何科であるかを問わず大部分の助手がいわゆる無給医局員の身分で働いていた。有給のポストもあるにはあったが、古株の助手の一人か二人が、四、五年待った末にようやくありつけるほど僅かだった。有給といっても、北杜夫がこの医局記の中で書いているように、一般病院の給与の半分程度の額をもらえるだけで、ボーナスも最初の一年は出ず、出るようになるころには、自分の順番が来るのを今か今かと待っている後輩に、早々に
ポストを明け渡さねばならなかった。
それでもなお医局に入って助手をするものが多かったのは、こうして無給で奉公した見返りに、医学博士の肩書が与えられる制度になっていたからである。外国ではドクターとは医者の同義語だが、ドクターとは博士という意味である。日本では博士でなくても医者として働くことは出来るのだが、ほとんど医者の全員が博士であったから、持っていないとやぶ医者と思われそうで肩身が狭い。それだからこそだれもがこの博士号を欲しがったのである。こうして無給で奉公していたら、幾年かの後にかならず博士号が貰えるのならよいが、そう簡単にことが運ばなかった。なにしろ助手だって人間である。個人の事情もある。命令されたからといって、ハイハイとばかりいっておれない。しかし思い切ってノーといって、下手に教授のご機嫌を損ねようものなら、博士論文を提出させてくれない。提出しても教授室の本棚にぽいとのせられ、何年も店晒しにされるケースも稀ではない。それだけではなかった。あいつは目障りだと、命令で地方の辺鄙な病院に飛ばされこともあった。
一般に出張は形式的には応募制だったが、辺鄙なところの病院には応募者がおらず、教授命令が出る。こうなると名指されたものはいやでも行かねばならない。いちど地方の病院に出張してきた者は、免疫が出来たと称される身になって、いちおう対象から除外される。しかしまだ出張したことのないものは、誰かに決まるまで、自分に当てられないか、まるでロシアンルーレットをやらされているみたいに緊張したものだった。
昔の医学部の教授が、このようにまるで専制君主のように振る舞っていたことはまぎれもないことで、それは教授がこのような制度の上にのった地位だったからである。こうして慶應などの私立大学は、無給の助手を働かせる医学部のあげた収益で、他の学部までが授業料を安くして、余裕のある予算を組むことが出来たのである。しかし、それも遠い昔のことだ。今では大学病院が巨額の赤字を出し、他の学部から援助を受けるありさまである。さてかつてのこうした医学部の制度は、医学部を発端にした学園紛争の結果今はなくなり、暴君のような教授ももはや見られなくなった。ぼくの知るかぎりでは、それらはもはや伝説の世界に属する。

当時は精神医療そのものが曲がり角にあった。精神医学は今でもそうだが、学問として成立してからまだ日が浅く、十九世紀もぎりぎりおしつまったころ、ようやく学問らしい体裁を整えた。分裂病とか躁鬱病のような診断名は昔からあると思われがちだが、一九〇三年にロンドンから帰国したばかりの夏目漱石を、家族の依頼で診察した東大教授さえ、彼に「追跡妄想」の診断しかつけられなかった。なぜなら分裂病などという病名はまだつくられてもいなかったからである。
一九五二年つまり北杜夫が、慶應神経科に入局したばかりのころ、精神科医は治療面で電気ショックとインシュリンショック、それに熱療法以外に、後々批判を受けるロボトミーが脚光を浴びていたが、現在あるような治療法らしい治療法を持っていなかった。初めての向精神薬クロールプロマジンが日本に導入されるのは、一九五五年ごろからである。そのことから想像されるように、当時の多くの精神病院は、患者をただ鍵をかけて閉じ込めておくだけの収容所に過ぎなかった。北杜夫の出張させられた山梨の県立精神病院は、彼の筆で描かれたとおりのひどいところだったが、当時の日本では決して例外的な病院ではなかった。
しかし、他方で精神医学が、新しい局面を迎えていたことも事実である。WHOは当時の日本の精神病院不足を指摘し、二倍から三倍にベッド数を増やすべきだと勧告した。その勧告に基づいて、厚生省の指導で当時斜陽化していた結核病院の転換や、精神病院の新設増設があちこちで行われ、いわゆる精神科ブームが起きたのである(その二十年後、WHOは考えを変え、ベッド数は二分の一から三分の一に減らすべきだと勧告するのだから、かなり無責任な話である)。入院ベッド数が増えれば、当然精神科医も必要になる。こうしてそれまで日の当たらない小さな科(クラインファッハ)に過ぎなかった諸大学の精神科教室が、急速に需要が増えた医者集めに奔走することになった。こういう時代に医局記に登場する躁病的なM教授はぴったりの人物だった。新しく精神病院を開設した院長たちは、医者を派遣してもらおうと、医局に不足がちな研究費寄付の申し出を手土産に日参する。もちろんM教授のところにもわれ先にと参上した。こうして神様のように敬われると、中小企業の社長が突然大企業の会長になったようなものだから、M教授ならずともますます躁病的になる。来るものは拒まずで誰でも医局員として受け入れ、どんな僻地の病院からの要請も拒まず、医局員の派遣を請け合った。その結果命令でいやがる医局員を、日本の隅々の僻地の精神病院に送り込むことになった。慶應は山形から宮崎まで、ほとんど全国に出張先があったから、突然東北や九州に出張を命じられることもあり得るわけで、助手としてははらはらのしどおしだった。北杜夫が泣く泣く山梨の県立病院に出張したのは、そのような状況のもとであった。

医局記は北杜夫が医局員として生活していたころの回想である。それは彼が大学を卒業してから芥川賞を受賞し、エッセイ『どくとるマンボウ航海記』も馬鹿売れというほどの超ベストセラーになり、作家としての地位を固めるまでの時代に重なる。
彼は彼の創りだしたユーモラスな饒舌的文体、法螺と思えば真実、真実と思えば法螺という、読む者をして牛若丸に翻弄される弁慶のような気分にさせる、いわゆるマンボウものの語り口でこの回想も書いた。だから読者が、ここに登場する人物も事件も、文体上の真実、つまりは作家的に誇張されたリアリティだと思われても不思議ではない。だが彼の三年後に同じ医局に入り、その時代を共に生きた仲間の一人として証言するが、この医局記には不思議と嘘がないのである。誇張も少ない。ぼくにもほぼこの時代の人物群衆をモデルにして書いた「しおれし花飾りのごとく」という小説や「クレージイ・ドクターの回想」というエッセイ作品があるが、そこにも似たような荒唐無稽と思われる人物が登場する。ヒステリーの奥さんに顔をひっかかれて、それを猫のせいにしている医局長や、教授と同じ名前の医局員が交通違反で捕まって「慶應精神科のMだ」と名乗り、警察から大学にかかった電話にほんものの教授が出て「わしは交通違反などやっていない。そもそも車の免許すらも持っておらんわしに、どうして交通違反などできるか」と答えたところから起こった、てんやわんやの混乱の原因になった男など、すべてぼくの平板なレアリズムの文体で書かれてもかなりの荒唐無稽ぶりである。つまり対象の方が筆の誇張を越えていたのである。
精神科ブームの起こる前に、つまり精神科医が医者らしい仕事もできない、収容所の所長のようなそんざいでしかない時代に入局した医師たちが、かなりな変人奇人ばかりであったのは当然だ。HO先生と書かれている先輩のような例外もあったが、一般には他の常識的な人間を必要とする科では、とうてい入局を許されそうもない常識音痴で、やむなく精神科にきたという落ちこぼれ的な医師が多かったせいもある。では精神科ブームが起こってからはまともな医局員が多くなったかといえば、すぐにはその傾向は改まらなかった。なにしろ数は力なりという、自民党田中派の原理を先取りしたようなM教授のもとにあっては、入局したい人間をいかなる理由からも拒むなんて考えられなかった。他の大学の医局からは常識はずれで拒まれた変人奇人も、ここではどうぞどうぞと受け入れられたからである。しかし、天網恢々である。そのような変人奇人たちは、自分に相応しい活動の場を得たのだった。新しい病院の中には金儲けばかり考える怪しげな経営者たちの建てたものもあり、そこに出張させられた医者が理事長と対立するというケースもしばしばあった。よほどの変人でなければとうてい勤まらなかった。一見して、まともなお医者さんらしい風貌の医局員が見られるようになったのは、ぼくの五年ばかり後輩の時代からではないかと思う。ついこの間も、ぼく自身が三十年前に初診をした患者に会ったら「先生は南京豆をぼりぼり食いながらわたしの話を聞いてたでしょう。あれが診察だとは思いませんでしたよ」といわれて赤面した。本人は覚えがないが、それが本当ならいくらなんでもお行儀が悪すぎる。ぼく自身も最近になって少しまともになってきたということか。精神病院も以後大きく変化した。ただ閉じ込めておくだけの病院は減り、入院させず外来だけで治療するクリニック形式の精神科が主流になりつつある。医者も穏やかな常識的な、ごく普通のお医者さんタイプの人間が増えた。それでよいのだろうが、なにか寂しい気がしないでもない。
北杜夫の彼のいわゆるマンボウもののエッセイの中で、自分が駄目医者であるようなイメージを作り、それで笑いを誘ってきた。だがこの医局記を注意深く読むと、彼が精神科医としてもたぐいまれなセンスの持ち主であったことを知ることが出来る。時々引用される山梨の病院でつけていたというノートに見られる文章、中でも病棟の中で白衣を脱いで横たわっていると、これまで一度も口を割らなかった患者が、向こうから話しかけてきた個所など、彼の文学者としてのセンスが決して精神科医のセンスと対立するものでないことを示している。山梨の病院で患者が患者に殺されるという不幸な事件が起こったあと、責任者として被害者の家に詫びにいき、そこで殺気だった家族に囲まれるエピソードがあるが、その時に彼が示した臨床医としての正直さと誠実さなど、彼の臨床医としての資質を示して余すところがない。マンボウものの読者は、この本で北杜夫の実像を初めて垣間見ることが出来るだろう。
マーク・トゥエインは「三十年は永遠だ」といったそうである。そうであるとあいまいにぼかすのは、彼の言葉として引用してあったのを読んだのであって、彼がどこでそういったかを確かめていないからだ。
昔、つまりぼくがもう少し若かったころは、この言葉を単なる冗談と受け取った。千年だって有限だ。なのに三十年が永遠だとは!だが、六十五歳を迎えるころになってから、ぼくにはこの言葉が単なる冗談とは思えなくなってきた。なぜなら三十年前の話をすると「それって、私の生まれる前の話でしょ」と、それを千年前と同列に扱う人間が増えてきたからだ。生まれる前という点では、千年も三十年も同じこと。理解出来ないことではない。しかしぼく自身には、三十年前はつい昨日のことのように思い出される。それでいて三好達治の詩ではないが「帰らぬ日 遠い昔だ なにもかも」という思いもする。誓ってもいいが、ここに登場する人間たちはほんとうにこのとおりの人間として、わたしたちねまわりにいたのである。すべて比較の問題なのだ。昔、個性と呼ばれていたものが、今では異常と見なされるようになったというだけのこと。別の見方をすれば、今の時代は個性を喪失した時代といってよいのだ。