(巻三十五)長き夜やもう半分の酒かなし(古厩林生)

(巻三十五)長き夜やもう半分の酒かなし(古厩林生)

11月17日木曜日

写真は昨日訪れた高木神社。

長き夜やまだ半分も酒楽し(拙句)

と混ぜ返しては失礼か。

Man only likes to count his troubles; he doesn't calculate his happiness. Fyodor Dostoevsky

とは言え、老い先の日々に不安は高まるなあ。短いのがせめてもの救いだ‼

煮凝りや余生のかたち定まらず(川崎益太郎)

朝家事は拭き掃除、洗濯に毛布干し。

細君が妹に電話して、暫くしたら妹からまた電話が入っていた。細君が云うに「今まで病気もせずに来られて、私たちは幸せだったわね」と確認しあったそうだ。ついでに妹から“ケチケチしてないで美味しいもの食べなさいよ!”と気合を入れられたとの由。

昼飯食って、一息ついて、曇天のなか散歩に出かけた。図書館前で久しぶりに鼻黒に会う。声を掛けたら駆け寄ってきた。相変わらず目脂はひどいが全体的にふくよかになり毛並みもよく健康に問題なさそうだ。図書館から笠間稲荷のコンちゃんを訪ねたが飼い主がいたので素通りした。そこから都住3へ廻り藤棚のところでサンちゃんとフジちゃんを訪ねた。サンちゃんは今日は喉を詰まらせずに上手に食べられた。よかった!よかった‼

1号棟の階段へ進み、待っていてくれたクロちゃんと遊ぶ。曇天だが、クロちゃんの毛並みに触ると温かい。

都住2に行っても猫はいないので、そのまま白鳥のファミマへ行き、珈琲を喫して帰宅。

夜、6時過ぎに宇宙船が通過するとのことで、ベランダから宙を仰ぐ。雲の隙間から僅か10秒ほどそれらしきを追った。細君が「どこよどこよ⁉」と訊くが天に指差して「あそこあそこ」と言っても瞬時に同じ点に結びつかず。

しあはせは小ぶりよろし熊手市(市川稲舟)

願い事-涅槃寂滅です。生きているからうれしんだ!という歌があったが、どうもそういう感じでもない。

【ある顛末】

血圧は2.5mlのアムロジンを服用していてここのところ130ー85あたりが続いていたのだが、夜風呂あがりに測ったら150-90が出て、160-100、170-110なんて測定値が出た。

気分的なことで上がったのだろうと、床についた。10時には眠りについていたようだが、深夜1時過ぎに目覚めて小用のあとで、止めておけばよいのに血圧を測ったら180を超えた値が何度も出た。読んだばかりの「二塁の曲り角で - 梅崎春生」の影響もあってか、ややパニックとなり、#7119に相談してみた。相談に対応してくれた看護師さんから自覚症状、指先・爪は紫色になっていないか、動悸はしないか、歩行できるか、等々質問を受けた。結果、「確認項目の限りでは救急車を呼ぶには及ばないが、最寄りの救急病院を案内するのでそちらへ自力で行ってください。」とのことになった。散歩している範囲に3つの病院があることで少々安堵し、一番近い病院に電話をかけてみた。警備室から看護師さんに繋がれ、看護師さんに電話するに至った経緯と自覚症状を伝え、質問に答えた。看護師さんは医師に内容を説明し、緊急性はないから睡眠をとって明朝診察を受けなさいとの医師の所見を伝えてくれた。セカンド・オピニオンを頂こうと2番目に近い病院に電話したら、警備室が出て看護師が席を外しているので15分後に電話してくださいとのことだった。それではサード・オピニオンをと3番目に近い病院に電話して看護師さんに話を聞いてもらう。こちらも緊急性はなかろうとのことで“さっさと寝なさい”と親切丁寧な言葉で言われた。最後にセカンド・オピニオンを求めた病院に再度電話した。話を聞いてもらい、救急センター、ファースト、サードと同様の見解を看護師さんから頂いた。こちらの病院だけは“不安で、来たいならいらっしゃい。”と付言してくれた。

そんな電話で小一時間使ったあと、血圧を測ったら145-90辺りまで落ち着いてきた。やはり血圧はメンタルに影響を受けるなあ。今3時で、また測ったら135-94だ。下はまだ高いが更に落ち着いてきた。

このシステムはありがたい。皆様有難う御座いました。横になろう。

「随筆筆写」の方に珍しく訪問者があり、

https://zuihitsuhissha.exblog.jp/

以下が読まれていた。

「夢殿の救世観音 - 広津和郎岩波文庫 日本近代随筆選1 から

「これから夢殿を見に行きます」

私がそういうと、

「夢殿?......それは駄目でしょう」と中村岳陵氏は首を傾げながら云った。到底救世観音の拝観は許される筈がないと氏は云うのである。

それは法隆寺の金堂の中であった。岳陵氏はモンペ姿で金堂の中をわれわれを案内して呉れていた。私は初対面であったがすぐに氏と親しい口をききあった。例の蛍光灯の美しい光線の中で、他の画家達は黙々として壁画の模写をやっていた。われわれは画家達の邪魔になる事を恐れながら、彼等の仕事を窺(のぞ)いて見たりした。驚くべき根気仕事である。恐らく敬虔と熱情との持続を必要とする現代の難事業の一つと云うべきであろう。

私は今までに度々金堂に這入った事はあったが、こんなに明るく照らされた壁画はまだ見た事がない。この金堂が建てられて千年の間、この壁画がこんなに明るい光線の中に浮き上らされた事はいまだ嘗(かつ)てなかったに違いない。

私が日本の仏像にはめずらしいエキゾチックな感じのする四天王を一つ一つ見て廻っていると、

「これを稚拙だと云って片付ける学者があるんですからね」と中村氏は再び私の側に近づいて来てにこにこしながら云った。「稚拙どころか、こんなに素晴しい、力の籠った彫刻を.....」

中村氏はこの金堂に毎日籠っているお蔭で、少し芸術の何ものかが解ってきましたと云った。- その謙遜な言葉の中には、みずみずしい喜びがあふれていた。

「壁画ばかりがこの金堂の中ですぐれているのではないので......仏像という仏像が皆素晴しいので、ここでこうして仕事をしているのがとても愉快です」

中村氏は中でも四天王が素晴らしいという事を度々繰返した。私もこの明るい光線故に、この四天王のすばらしさに今日始めて気がついたのである。それだから仔細に見て廻っていたのである。

夢殿は前以て交渉して拝観がゆるされる事になっていると聞いていたのに、途中でどうやら形勢が六ヵ敷(むずかし)くなって来たという囁(ささや)きがきこえた。どうも中村氏の云う通り、到底望みがないのかも知れない。

久米君と増田君とが管長に直接談判に行ったというので、その結果を待つ事にした。私はこの一行に途中から割り込んだので、前以てどういう交渉がしてあったのか知らなかった。それで夢殿が見られなければそれも仕方がないと思っていた。この金堂だけでも相当満足だと思っていた。

間もなく久米君達が帰って来た。交渉の結果、快く許可されたというのである。

「やっぱり夢殿は見られるそうです」

中村氏に云うと、

「おお、そうですか、それは好い。是非見ていらっしゃい」と中村氏はわが事のように眼を輝かして喜んで呉れた。そして「世界一ですよ。........ 割切れませんよ」と云った。

私はその「世界一」という言葉と、「割切れませんよ」という言葉とを耳に残しながら、金堂を出て行った。

二十歳を越して間もない若い坊さんが、ちびた草履を穿き、無造作に鍵を手にしながら、われわれを夢殿に案内して行った。

「見たら吃驚(びっくり)しますよ。大したものではありませんよ」私と丁度並んで歩いていた森君がにやにやしながら囁いた。それは一種の反語で、「案外皆さんは大したものではないと思うかも知れませんよ」というような意味だったのかも知れないと思いが、或は又ほんとうに森君は森君の見方から「大したものではない」と思っているのかも知れない。

森君は京都の美術研究家で、私は前から面識があるが、同君が昔小島政二郎君の教え子だったという事は今度始めて知った。それでこの森君に京都、奈良の美術を案内して貰おうというのが、小島君には去年以来の懸案だったのだそうである。

この旅行は文芸春秋社が、銃後の運動の講演者達を奈良に招待した旅行であったが、この機会を利用して、小島君はその日頃の懸案を実現しようというので、森君を京都から呼んだわけなのである。それだからこの美術行脚は奈良にきた連中の中のほんの一部の人々の計画であった。 - 私は文芸春秋社の招待に応じてぼんやり奈良にやって来たのであるが、この計画を聞くと、逸早(いちはや)くその仲間に割込んだ。

若い坊さんは黙々として私達を案内して行った。夢殿の外廊下には一般の拝観者が何人か動いていた。

若い坊さんは堂の裏側の格子戸を鍵で開けて、われわれを堂内に導いた。併(しか)し格子戸は唯(ただ)閉めただけで、後に鍵をかけては置かなかった。

> 救世観音の厨子を開く前に、坊さんは香を焚き読経した。簡略ではあるがその儀式がわれわれの心を鎮め、やがてそのお姿を現して呉れる秘仏に対する心の準備を与えて呉れた。

静かに厨子が開かれた時、森君の「大したものではありませんよ」と云った心持が解らない事はなかった。実際最初の一瞥(いちべつ)では期待程でもない平凡な感じが来た。併しじっと仰ぎ見ていると、それは何という素晴しい美しさで働きかけ始めるのであろう。姿態の美しさ、手の美しさもさる事ながら、その頬のあたりの魅力 - 少し微笑を浮べているようにも見えるし、浮べていないようにも見えるその頬の複雑な表情 - 簡単に素通りしてしまえばそれまでだが、じっと見ていると、だんだんその複雑な表情から観者の心に静かににじみ拡がって来るものがある。それは唯単に崇高という言葉で表せるだけのものではない。もっと肉感的であり、地上的であり、われわれの直(す)ぐ側をそのまま平然と歩いているものであり、何か往来ででもすれ違いそうなそういう人間的な卑近感の要素をもそれは含んでいる。だが、その人間的卑近感の要素を見つけて、われわれが気易い親しさに溺れかけようとすると、それはにやりとわれわれに微笑を投げかけて、そのままの姿で今度は高く高く何処までも高く昇って行ってしまいそうな気高さを見せ始めるのである。雲の上までも昇って行ってしまいそうな気高さを見せ始めるのである。

何という広く大きなもののそれはシンボルであろう。天上と地上とを併せ得たようなゆったりしたおおどかな広さと大きさ! - 若しわれわれがわれわれの卑近な言葉で、この救世観音のありがたさを解釈すれば、この観音は処女童貞の清純などというそんな単純なものでは凡そない。例えは中宮寺の本尊菩薩思惟像がシンボライズしているものなどよりは、ずっと複雑であり、深刻であり、そして清濁併せ呑んでいる。酸いも甘いも知りつくし、恐らく御自身も品行上の過失を三度や五度は犯していられるであろうし、年頃には人一倍煩悩にも悩まされた経験があられるであろうという感じである。そういう過失の経験を持ち、煩悩の記憶を持ちながら、而(しか)もそのまま雲の上まですっと昇って行ってしまわれそうに気高く、清純で、透明なのである。それだから驚嘆しないではいられないのである。

人々の過失や煩悩を微笑をもって理解し、それを許しながら、そのまま人々を温く救って行きそうな気がする。 - どうしてこんな複雑な大きさ、人生の労苦煩悩の全体を含めて、それを静かな微笑でゆるしているような大きさが、一個の仏像 - 彫刻に具現出来たか、それだからわれわれは驚異の眼を瞠(みは)って仰ぎ見ずにいられないのである。

「世界一ですよ。.....割り切れませんよ」金堂で岳陵氏の云った言葉も、恐らくここを指しているのであろう。

モナリザの謎の笑い - もとよりこの名画を私は複製写真でしか見てはいないが、併し夢殿の観音の謎の笑いは、恐らくモナリザのそれよももっと割り切れなく複雑であろう。

私はそれから暫くこの夢殿の観音に憑かれた感じであった。翌日大阪の町を歩いている間も、私の瞼には夢殿の観音が浮んでいたが、それの人間的地上性の要素を強く思い浮べる時には、デパートですれ違う女にも夢殿の観音の面影を探しているような気持にいつかなっていた。そしてそういう気持から不図(ふと)気がついてわれに帰ると、瞼の中の観音は、そんな卑近なところにはなく、高く高くわれわれの手のとどかないところに昇って行ってしまうのである。

私は今までに仏像の傑作を随分沢山見た。それぞれの仏像が、それぞれの持つ美しさ、立派さ、気高さ、力強さで、私の心に残っている。-併しどうやら私には、夢殿の救世観音がそれ等のすぐれた仏達の一番中央に位しているもののような気がする。この夢殿の救世観音に対しては、それ等の仏達の現しているものは、相対的であり、部分的であるような気がする。

その夢殿の救世観音を拝観している時、私はもう一つまことに気持のよい光景に出遭った。その事を書き添えることは、決して無駄な事ではないと思う。

われわれが若い坊さんに堂内に導き入れられた時、若い坊さんは後の格子戸を閉ざしただけで鍵をかけなかったという事は前に述べたが、前から外廊下を歩いていた数人の一般拝観者は、われわれが堂内にに這入ったのを見ると、その鍵をかけていない格子戸を開けて、どやどやとわれわれの後から続いて這入って来た。それをその若い坊さんは少しもとがめようとしなかったのである。

特別の許可なくしては絶対に拝観をゆるされないと云われている秘仏であるから、恐らく「這入ってはいけない」と云ってその人達を制止するであろうと私は想像していた。ところがわれわれに拝観をゆるすために一度厨子を開けた以上、そこに居合わせたものはみな無縁でないと思ったのか、(恐らくほんとうにそう思ったのであろうと思うが)若い坊さんはそうして這入って来た人達を、見て見ぬ振りに黙許していた。唯あまりに騒がしくどやどやと這入って来て、われわれの邪魔になりそうになったのを見ると、若い坊さんは始めて物静かに云った。

「この方達が御覧になってから、あなた方は見て下さい」

東京あたりで人心が荒(すさ)み、不親切になり、無闇に人が人をとがめたり、喧嘩腰になったりする近頃の世態を見過ぎているわれわれには、何かそれは胸がすっとするような清涼な光景であった。無口で無表情でにこりともしない坊さんであったが、その心はそんなにも優しかったのである。人間の礼儀の何ものであるかを知っている人に、久しぶりで出会ったような気がした。

殊にわれわれの拝観が済み、後から這入って来た一般の人の拝観も済んで、その若い坊さんが「それではもうよござんすか」と云いながら厨子を閉ざしかけた時であった。

遅れ走せに三人駆け込んで来た。婆さんの手を引くようにしてやって来た田舎びた中年の夫婦であった。その足音を聞くと、若い坊さんは厨子を閉ざしかけていた手を一寸(ちょっと)休め、その人達の近づいて来るのを待った。そしてその三人の拝み終るのん見済ましてから、静かに厨子の扉を閉ざしたのである。