(巻三十五)花冷の本屋に本の無かりけり(江良修)

(巻三十五)花冷の本屋に本の無かりけり(江良修)

11月18日金曜日

清々しい朝である。細君は生協に出かけ、私は洗濯物とシートを干す。昼飯を喰って、ネットに投稿してから散歩に出た。先ず、図書館で予約していた『うらなり-小林信彦(文春文庫)』を借りた。図書館前に鼻黒は居らず。そこから笠間稲荷へ廻る。今日はコンちゃんだけで飼い主は居ないので先ずお稲荷さんお詣りして、用意した一円玉五六枚を小さな賽銭箱に入れた。コンちゃんは十分に私を認識していて側にきて愛嬌を振りまく。一袋あげて退去。続いて新道を渡り都住3に入り、藤棚側のカバーしたバイクの上で寝ていたサンちゃんとフジちゃんに挨拶。食い気のフジちゃんは直ぐに飛び下りてスナックをせびるが、サンちゃんは眠そうにして動かない。フジちゃんに少しあげながら、サンちゃんの鼻先に一粒二粒置いてあげたら体を起こさずに食べていた。そこから1号棟へと向かったが、クロちゃんが途中の自転車置場まで迎えに来ていた。いつもの階段脇まで行ってスナックをあげたが、道路工事の音が気になるようでクロちゃんは落ち着かない。音が嫌で自転車置場の方に来ていたのか。

都住3から湯屋の前を通って白鳥ファミマへ。金曜日はおでん2割引きなのでおでんで一杯と思って店に入ったが、鍋が空っぽで諦めた。そんなに売れるのか⁉珈琲を喫して帰宅。

コンビニのおでんの湯気や冬に入る(八木健夫)

宇宙船が5時過ぎに南西から北東に通過とのことで細君と見上げた。今日は細君も物体を捉えることができて「お父さんだけ見て、ずるい。」なんて可愛い言葉は吐かなかった。

今日食べた物;

昼飯は昨晩の残りの牛肉。一昨日細君がおまけしてもらって買った上級肉だ。単に焼いただけだが、大根おろしで食べるのがわが家の流儀で、美味しく頂いた。そうだ今日は「大根卸し - 團伊玖磨」を読み返そう。

今日見た人々;

レジの叔母さん。細君の買い残しを買いに生協に出かけ、レジに並んだ。前の老婦人の買い物をレジ叔母さんがバーコードの読み込みをしながらバスケットAからBに移していくのをボーッと眺めていたが、レジ叔母さんがまだAの側面に「炒飯のもと」の平たいパッケージが張り付いているのに勘定を締めたのでオヤッと思った。自分の買い物なら「もう一個あるよ!」と促せるが、ここでは余計なお世話だ。私の番になり、AバスケットをBバスケットにする段になってやっと気づき、謝りながら一点の追加支払いをお願いしていた。

引越屋の皆さん。お昼のゴミ出しのときにお見掛けした。搬出のようで、お若い一人がトラックの荷台を睨みながら最後の大物をうまく詰め込む算段をしていた。若い女性もチームにいるらしく、リーダーの指示に元気な声が返っていた。お昼で搬出が終わっていないのは、少し遅いような気もするが、まあ、余計なお世話だろう。

宅配屋の叔父さん。四十過ぎの叔父さんで無印の白い軽から小さなカートンを持って降りてきて、郵便受けに走って行った。長髪で頭の片側側面から編んで垂らしている。一風変わった人だが“社長”として頑張っているのだろう。しかし、“宅配便です!”とその叔父さんが来たら身構えるな。

寒き顔映り宅急便と言ふ(加藤かな文)

「大根卸し - 團伊玖磨朝日文庫 重ねてパイプのけむり から

大根卸しの上に、生卵を割って落とし、醤油を少し許[ばか]り滴[したた]らせ、掻き廻して食う。実に美味くて美味くて、どうにも成らぬ。炊きたての熱い御飯の上にそれをかけて、これを又掻き廻して食う。それが又美味くて美味くてどうにも成らぬ。困った事と言わねばならぬ。

何故困るかと言うに、こんな事をしていては、そうで無くとも食い過ぎる御飯の量が矢鱈に増えるからであって、そうで無くとも御飯の食い過ぎのために中性脂肪が並みの人間の四倍もあって、まあ、労働をなさる御仕事ですから、少しは良いのでしょうが、貴方のように三度三度の御食事に御飯を丼に五杯も七杯も召し上がるのは考えものです、少しお控えになっては如何なものでしょう、との注意を御医者様から受けている身にとっては、大根卸しに生卵を割って落とし、醤油を少し許り滴らせて掻き廻し、それを炊きたての御飯の上にかけて、それを又掻き廻して食うのが美味くて美味くてどうにも成らぬ仕儀は、誠に困却事であり、由々しき問題と言わねばならなぬ。それに生卵は、巷間伝わるところに依ればコレステロールの塊りのようなものだそうで、コレステロールの方は並みの人の二倍位しか無いから、さして心配するにも及ばないけれども、これ又身体を思えば良かろう筈は無い。

どうしてこんなものを矢鱈に美味がるようになったかと言えば、多分にこれは親の愛に責任があって、子供の頃、乾性肋膜炎という、今で言う肺病に取り憑かれて青瓢箪のように瘠せ衰え、何事にも無気力、何の希望も無いような顔をして上目遣いに大人達を盗み見ながらうろうろこそこそしていた僕に、何とかして輝やかしい健康を取り戻させようと考えた母親が、他のものには箸を伸ばそうとしない子供が、大根卸しに生卵を割って落とし、醤油を少し許り滴らせて炊きたての熱い御飯の上にかけてそれを又掻き廻して与えたところ、そればかりは美味い美味いと喜んで箸を動かす我が子を見て、喜こびの余り躍り上がり、これだ、これです、これにて我が児に取り憑いた肺病を撃退せむ。撃ちして止まむとばかり、白襷に長刀[なぎなた]を手挟む勢いで、小学三年の頃から始まって中学二年に至る間の毎朝の食膳に、大根卸しに生卵を割って落とし、醤油を少し許り滴らせて掻き廻し、炊きたての熱い御飯の上にそれをかけて供して呉れたのがそもそもこの美味が僕の舌に定着した始まりであった。誠に山よりも高く、海よりも深いは母の恩、六年間、二千百九十回に渉る大根卸しに生卵の朝食は、肺病神を僕の身体から追い払ったばかりで無く、何とも彼とも我乍ら驚く程の頑健な少年がすっくとばかり母の前に誕生した。母の喜こびは一方成らぬものだった。従って僕にとっては、大根卸しに生卵を割って落とし、醤油を少し許り滴らせて掻き廻し、それを炊きたての御飯にかけて喫するこの食品は、海よりも深い母の慈愛をしみじみ感じる味であり、従って、これを喫する前には、瞬間威儀を正し、合掌して母に感謝を捧げてから箸を執り、美味に困却しながら数杯の丼飯を喫し終えるのが仕来たりである。

願い事-涅槃寂滅です。

朝起きて血圧を測ると135-83でだいぶ元に戻った。4時から7時まで眠れたが、眠りに入る前に推敲していた来年の年頭一句を捻りあげた。

門松やかけたくはなし時と金

である。一応今はこれか。

一休の狂歌に、

門松は冥土の旅の一里塚 

めでたくもありめでたくもなし

というのがあるそうだから、門松やでよいだろう。

今夜は湯船に浸からず、手短に済ませた。測定も無理しないで、興奮しないでできたらやり、興奮気味だったらパスしよう。