「満足を引きのばす欲望 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

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「満足を引きのばす欲望 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から


さて、人間の欲望のうちで、もっとも基本的なものは物質的欲望であらうが、まづこれを観察しただけでも、ただちに、欲望が無限だといふ先入見が誤りであることが理解できる。
人間のとっての最大の不幸は、もちろん、この物質的欲望さへ満足されないことであるが、そのつぎの不幸は、欲望が無限であることではなくて、それがあまりにも簡単に満足されてしまふことである。食物をむさぼる人にとって、何よりの悲しみは胃袋の容量に限度があり、食物の美味にもかかはわらず、一定度の分量を越えては喰べられない、といふ事実であらう。それどころか、しばしば人間の官能の喜びは逆説的な構造を示すものであって、欲望が満たされるにつれて快楽そのものが逓減し、つひには苦痛にまで変質してしまふといふことは、広く知られてゐる。いはば、物質的な欲望の満足は、それがまだ成就されてゐないあひだだけ成立し、完全に成就された瞬間に消滅するといふ、きはめて皮肉な構造によって人間を翻弄する。かつてプラトンが、人間の世俗的な快楽はけっして純粋な快楽ではありえず、必ず苦痛をうちに含んで成立すると考へたのは、けだし、この意味においてだったのである。
このことは、いひかへれば、物質的な消費が行動としていささか特殊な構造を持ち、一定の目的を志向しながら、けっしてその実現を求めない、といふことを意味してゐる。この場合、目的とは、もちろん、なんらかのものを消費することであるが、欲望はそれをめざしながら、しかし、同時にそれにいたる過程をできるだけ引きのばさうとする。ここでは、いはば目的と過程の意味が逆転するのであって、ものの消耗という目的は、むしろ、消耗の過程を楽しむための手段の地位に置かれるのである。
食欲についていへば、それは、最大量の食物を最短時間に消耗しようとするのではなく、むしろ逆に、より多く楽しむために、少量の食物を最大の時間をかけて消耗しようとする。さうするのは、人間がものの乏しさを知ってゐるからではなくて、食欲そのものの乏しさを知ってゐるからであって、その証拠に、あらゆる食事の贅沢はこの奇妙な吝
嗇[りんしょく]から生まれてきた、と見ることができる。われわれは、一片の牛肉を楽しむために、たんにその調理に時間をかけるだけでなく、それを給仕人の手をわづらはせて食卓に飾らせ、おごそかな手つきで切りわけておもむろに口に運ぶことを喜びとする。そのために、われわれは、さらに手数のかかる食器や食堂の調度を整へ、煩雑な作法と食卓の会話に気を配り、食前酒の選択から食後の音楽まで、ありとある演劇的儀式な創造に心を労してゐる。その極限ともいふべき形態が、先にも触れた日本の「茶の湯」の儀式であって、これはただひとつまみの緑茶の粉を消耗するために、おびただしい時間と儀礼と手仕事のわざを費やすのである。
別のいひ方をするならば、人間には物質的欲望のうへにもうひとつの欲望があって、これがたえず物質的欲望の有限性を嘆き、それを引きのばすことのなかにみづからの満足を求めてゐる、と見ることもできる。これは、われわれの欲望についての欲望と呼んでもよいし、いっそ精神的欲望と呼んでもよいものであるが、たしかに、この第二の欲望は満足の限界なしにどこまでも膨張する性質を持っている。しかし、これは、物質的欲望と別にそれ自体の消費を行ふものではなく、つねに物質的な消費にともなって、そこでのものの消費を遅らせることに満足を見いださうとする。「わざは長し、生は短し」、というのがこの欲望の主張であって、それにニーチェ的な生命力の蕩尽とは正反対に、所詮は瞬時に終る生命の燃焼にさからひ、あらゆるわざを使ってそれをせきとめようと試みるのである。