「中くらいの妻 - 井口泰子」93年版ベスト・エッセイ集 から

 

「中くらいの妻 - 井口泰子」93年版ベスト・エッセイ集 から

私の夫は、何でも「中」が好きである。上、中、下とあるうちの、中、である。彼の母親が、常々「中庸をいくということは大事なことです」というのに感化されたものらしい。
ただ姑は「中庸というのは、中くらい、とか、ほどほどといった意味ではありません。もっとふかーい思想であって、偏らない、とかバランスを取るといった意味なのです」といっているが、息子には、その、ふかーい意味は伝わらず、専ら、「中くらい」というのが人生訓として残ってしまったらしい。
買物も大体、中、の物を選ぶ。店員が「どれになさいますか」と寄ってくると「最近の売れ筋の物はどれですか」とか「中くらいのところといいますと?」と先ず聞いて、その辺りを基準に選ぶのである。
彼が「中」が好きらしいとは、私も婚約した頃から気づいていた。二人で結婚式場のホテルへ申し込みにいったとき、式場係に「お料理は、どのくらいにしましょうか。松、竹、梅とございますが」と聞かれると、彼は詳しい献立も聞かずに「竹で結構です」と答え、引出物も、エンゲージリングも大体この手で決めてしまったからである。 
夫は、そう好みや自己主張の強い人ではないから、「一番いいものを」「どうしてもこれを」というほど気負うこともなく、かといって「一番安いもの」というのも店員に財布の底を見すかされるような気もして、つまりところ、「中くらい」を選ぶのが彼にとって一番楽な買物の仕方であるらしい。
それに第一、めったに買物などしない夫には、一体どの程度の物を買ってよいか見当がつかないらしい。
“まあ、大勢が使っているものなら間違いなかろう”というのが夫の物差しである。それに「中くらい」のといったって、夫の説によれば、そもそもわれわれが足を運ぶ店というのが庶民のごくありふれた店で、きらびやかな高級品店ではないのであるから、「俺たちの“中”は、庶民の中の“中”なのだ」そうである。
最近では国民の大半が自分を中流だと思っているという意識調査の結果が報道されているが、夫はそれも「片腹痛い」という。そのこと自体は、「こりゃすごい、日本は平和だ」と高く評価しているのであるが、一方で「国民はみんなだまされているんだよ」と、なかなかニヒルである。
彼によれば、本当の上流、中流というのは国民の中のほんのひとにぎりの人間で、残りの99パーセントは全部下層である。国民の大半が中流と思っているのは下層の中の中流なのだ。上、中、下のうち上と中は目隠しされていて、庶民は、下のなかで「俺は上だ」「俺は中だ」と威張っているにすぎない。
「まるで井の中の蛙じゃないか」
それに彼の見るところ、「もともと人間は自分を“中”だと思いたがる要素をもっている」そうである。人間というものは、他人の不幸を見つけることで自分の幸福度を計るものらしい。自分より苦労している人、劣った人を見つけることによって慰められるものらしい。
「あいつは俺より金が無いらしい」
「あいつは体をこわしている」
「あいつは頭が悪い」
「あの人は私より器量が悪い」
自分より劣っていると思う人間を見つけられない人はまずいないから、人は自信をもって暮らしていられる。自分よりおとしめる対象のあるとき、人は決して自分は「下」だとは思わない。“俺は中だ”と思うものだ。自分より上と思う人間のない人もまずいまい。
人の立派さ、賢さなど美点ばかりが目につくようになると人は落ち込んでノイローゼになる。したがって、精神が健康であれば人は誰しも自分のことを「中くらい」と思うのではなかろうか。戦後の食うや食わずの時期でさえ、もし意識調査をしていれば、現在ほどでないにしろ、かなりの人数が「自分は中だ」と答えただろう、と夫は言うのである。
とはいうものの、そういう夫も、庶民の中の「中」、下層の中の「中」であることは間違いのないことである。ただ「中」と思っている大半の人が、いくらかの満足をもってそう答えているのと違って、夫は「フン」といったいささかの慷慨を持ちながら、その「中」に徹しようと思っているらしいのである。

子ども達が巣立ったこの頃では、我々夫婦もたまに食事に出かけることもあるが、出されたメニューに、ディナーA、B、Cとあれば、夫は迷わず「Bを」と注文する。私が「たまにはおいしいものもたべたいわ」と口を尖らせても、「どうせ同じ店だ。味がよくなるわけではない」と取り合わない。家具調度、身の回りの小物に至るまでこの手である。
そこへいくと私の買い物は気まぐれである。気に入れば少々分不相応であっても手にいれたい小ものもあれば、実用を満たすだけの安もので大いに満足するものもある。今年の夏は私の部屋に扇風機が欲しかったので、買付けの店で「一番安い扇風機を」買った。
私たち夫婦は結婚して二十五年になるが、長い間に二人の部屋にはそれぞれの違いが出てきた。
「お父さんの部屋はなかなかすっきりしてますねぇ」
私はこのごろ感心している。「中」くらいの物で揃えた「中」くらいの部屋は「中」くらいのサラリーマンの部屋を余すところなく表現していて、それなりにまとまっている。そこへいくと私の部屋はごちゃこちゃしている。夫のおさがりの「中」くらいの机の上に時代物の筆置きがあったり、安物の扇風機がぶんぶんうなっていたりである。
「どう考えたところで所詮、人は自分の生活のレベルを抜けられる訳がないんだから」というのが夫の卓見である。
ところがその卓見で、この間、私達の間にちょっとしたいさかいがあった。日曜日の夕食を私の手料理で機嫌よく一杯やっていたときのことである。
夫はふだんは口数の少ない方であるが、一杯入ると、とたんに舌の回転がなめらかになる。毎晩、夕食時は私を相手に日頃の卓見をしゃべりまくる。しかし卓見というのはそう毎日生まれるわけはないから、いきおい幾度も聞いた話が繰り返されることになる。私があくびをかみ殺しながら、それでも目だけは夫の方に向けて、頭の中では今度のボーナスの皮算用などしている。ときどきとんちんかんな相槌をうつらしいのが、夫が「む?」と聞き返すので分かって、慌ててごまかしたりする。
その時も、夫が熱中して聞かせる話を「またか」と上の空で聞いていたら、
「僕は何でも中が好きだから、かみさんも中にした」
といったのが、これはストレートに耳から頭に抜けた。
“むむむ、なんだと?”
私は日頃の慎みを忘れて思わず声にならない叫びを上げた。
目が点になったあとは口が開くのは食べ物が入るときだけ。怒りがむらむらっとこみ上げた。
夫が私をおとしめるつもりでいったのではないことは分かっている。むしろ二十五年たった夫婦の気安さから親愛のつもりでいったのであろう。だが、勘にさわった。
“あんまりだ”
むろん、私は自分を上の女だなどとさらさら思っているわけではない。「中」なら上々、「下」と思われたってしかたがない人間である。夫が私に首ったけになって結婚したのでもないこともよく承知している。日頃、底無しの自己嫌悪に陥ったときなどは、“よくこんな私と一生暮らそうと思ってくれたものだ”と密かに感謝しているくらいである。
私が怒ったのは「中の女」といわれたことではなく、夫の無神経さである。何も二十五年たった今になって「お前は中だ」と突きつけなくてもよいではないか。夫はなかなかの正直者で、隠し事の出来ない性質であることはよく承知しているものの、ふだんから何かと白黒をはっきりつけたがるところにコチンとくるものがあった。今度のこともその一つだと思えばよいのであるが、あまりにも女心を傷つけるではないか。昔、結婚式の料理を内容も聞かずに「竹」と決めたように、私のことを良く知りもせず、ただ「中くらいの女」と値踏みして結婚を決めたというのか。よし、たとえそうであったとしても、それは突きつけずにぼんやりとごまかしておくのが大人の知恵、夫婦のエチケットではないのか。私にしたって夫を上の上と思いこんだのでないくらい分かっているだろうに。自分を省みれば、こんな所かというのがお互いだったはず。それは隠して、さも相手を自分にとって「上の男」「上の女」と思っているように振る舞うのが、長年連れ添った夫婦の思いやりというものではないか。
大昔、この国を産み育てたというイザナギイザナミの神様だって結婚するときには「ああ、なんと美しい女だろう」「まあ、なんて素敵な男でしょう」と讃え合ったというではないか。それが夫婦のルールというものだ。
私は手当り次第に酒の肴を口に放り込みながら、ぶつぶつと胸の中で夫への小言を言い続けた。
口に出さないだけがせめてもの我慢であったが、夫にはそれが聞こえたらしい。夫は更にとどめをさした。
「こんな事でむくれるところが“中”の“中”たるところ。上の女なら『あらまぁ、あなたは“上”の“上”ですわ』とにこやかにかわして、話を面白くもっていくものだよ」